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意外な戦史を語る~  カモメとウツボのメクルメク戦史対談

意外な戦史を語る~ カモメとウツボのメクルメク戦史対談

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2014.04.24
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(カモメ)「陸大首席列伝」ということで、陸軍大学校の卒業成績が首席の人物の経歴とその人物像をできる限り、掘り起こしていくのですね。

(ウツボ)そうだね。陸軍大学校の一期首席から順に見ていくのだけど、資料がなくて不十分な経歴しかない人もいるので、ご了承願いたい。

【一期首席・東條英教中将(士官学校出身ではない)】

(カモメ)最初は一期首席の東條英教(とうじょう・ひでのり)中将ですね。陸軍大学校一期は明治十六年四月十二日入学、明治十八年十二月二十四日卒業。入学者数十九名、卒業者数十名。秋山好古大将、井口省吾大将、仙波太郎中将、長岡外史中将などがいいますね。だけど、卒業者が少ないですね。

(ウツボ)教官のメッケル少佐が、厳しい指導で、ダメな学生や気に入らない学生を、陸大からどんどん追放したため、と言われている。

(カモメ)メッケル少佐はドイツの陸軍大学の教官でしたが、参謀総長・モルトケ中将によって推薦され、来日したのですね。メッケル少佐の実家はビール醸造を家業とする家でしたね。

(ウツボ)そうだね。さて、第一期の首席、東條英教だが、彼は安政二年十一月八日(一八五五年十二月十六日)、陸奥国盛岡城下(岩手県盛岡市)生まれた。盛岡藩士・東條英俊の長男だった。

(カモメ)東條英教の三男は、内閣総理大臣・東條英機(とうじょう・ひでき)陸軍大将(東京市・陸士十七・陸大二十七・歩兵第一連隊長・参謀本部第一課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸士幹事・歩兵第二十四旅団長・関東軍憲兵隊司令官・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍大臣・内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣・大将・兼参謀総長・予備役・A級戦犯・絞首刑)ですね。

(ウツボ)そうだね。「昭和の天皇と東條英機」(亀井宏・光人社)によると、東條英教の祖父、東條英政は、将軍の指南役であった能楽宝生流の出身と言われている。

(カモメ)明治六年(十六歳)、東條英教は東京にできた陸軍の教導団(下士官養成機関)に入団。明治九年(十九歳)教導団卒業後、熊本鎮台第一四連隊(小倉)に軍曹として配属。連隊長心得は乃木希典少佐でした。

(ウツボ)明治十年二月、東條英教は西南の役に乃木連隊の下士官として出征。西南の役の翌年、明治十一年、陸軍少尉に任じられ、東京勤務となった。東條英教は陸軍士官学校を卒業せずに陸軍少尉になった。

(カモメ)明治十六年三月、東條英教は新設されたばかりの陸軍大学校(一期)に入校。明治十八年十二月首席で卒業、天皇から恩賜の望遠鏡を賜る。六期生までは軍刀ではなく望遠鏡でした。

(ウツボ)卒業後メッケルから注目されていた東條英教は陸軍大学校の教官に任命された。明治二十一年、井口省吾、山口圭蔵とともに東條英教はドイツに留学した。

(カモメ)「東條英機と天皇の時代・上」(保阪正康・文春文庫)によると、山縣有朋(やまがた・ありとも)内務大臣(山口・陸軍大輔・陸軍中将・兼近衛都督・陸軍卿・佐賀討伐参軍・陸軍卿兼参謀局長・参謀本部長兼近衛都督・伯爵・内務大臣・兼農商務大臣・内閣総理大臣・大将・第一軍司令官・陸軍大臣・勲一等旭日桐花大綬章・功二級金鵄勲章・侯爵・元帥・内閣総理大臣・大勲位菊花大綬章・参謀総長・枢密院議長・功一級金鵄勲章・大勲位菊花章頸飾・公爵・枢密院議長)が、ヨーロッパ各国視察旅行の途中、明治二十二年九月、ベルリンを訪れたのです。

(ウツボ)当時、山縣有朋中将は、長州閥の頭領として明治政府を牛耳っていた。東條英教は井口省吾とともに、ホテルに山縣中将を訪ねて、語気鋭く次のように詰め寄った。

(カモメ)読んでみます。「陸軍の人事がはなはだ公正を欠いているように考えます。特に閣下の出身地である山口県人を、ことあるごとに重用されているのは、陸軍の近代化を阻害するものです」。

(ウツボ)このときの二人の話に、山縣中将は特に反論はしなかった。山縣中将は、一度や二度の接触では心を開く人物ではなかったが、腹の中は煮えかえる思いだった。この時、東條英教は山縣中将の逆鱗にふれたのだ。

(カモメ)以後、山縣中将は「東條英教」と「井口省吾」の名前を仇敵であるかのように周囲に洩らしたと言われています。

(ウツボ)そういう粘着質な性格こそ、権力の座に到達した山縣中将の最大の武器であることを、若い二人は知らなかったのだ。

(カモメ)その後の、東條英教の軍内での地位は、山縣有朋が威令を誇る限り、栄達は望めないものになってしまったのですね。それでも帰国後陸大教官、参謀本部第四部長(戦史編纂)を歴任しました。

(ウツボ)この人事は、参謀本部次長・川上操六(かわかみ・そうろく)中将(鹿児島・陸軍出仕・歩兵第一三連隊長・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第一連隊長・少将・参謀本部次長・近衛歩兵第二旅団長・ドイツ留学・参謀次長・中将・参謀本部次長・征清総督府参謀長・勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章・子爵・参謀総長・大将・病死・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)が、東條英教を呼び入れたのだ。

(カモメ)川上操六は、精神論や意気込みだけを振り回す軍人を嫌っていました。彼は知識の豊富な軍人を重用し、山縣有朋中将や陸軍次官・桂太郎(かつら・たろう)少将(山口・ドイツ公使館附武官・参謀本部・陸軍次官・中将・第三師団長・台湾総督・陸軍大臣・大将・首相・首相・元老・内大臣・首相・死去・従一位・大勲位・功三級・公爵)らの長閥優先を無視したのですね。

(ウツボ)そうだね。だが、明治三十二年五月、川上操六は参謀総長在任中に五十三歳で病死した。東條英教大佐は、軍内にとどまれるか否かの瀬戸際まで追い込まれた。東條大佐は後ろ盾を失い、要職から外されていった。

(カモメ)明治三十四年五月、東條英教少将は、参謀本部第四部長から姫路の第八旅団長に転属になりました。

(ウツボ)これは考えられない人事で明らかに左遷だった。当時の軍内で東條英教少将の人物評は次のようなものだった。

(カモメ)読んでみます。「山縣閣下に直言した士だ。人格も高潔であるが、それがかえって災いした。しかも頭がよく何事も理論どおりに行わなければ承知せぬ性格は大人物ではない」。








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最終更新日  2015.07.13 17:36:15


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