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カテゴリ:教育実践と「競争」
私のブログ記事「驚きのフィンランド教育 2 -格差をなくせば学力は伸びる-」
に関連してPsycheさんから「競争についてどう考えるのか」という趣旨のご質問がありました。 例えば次のような質問です。 >つまりしょうさんは、競争(切磋琢磨)を軽視しておらず また否定的に捉えられている立場ではないと考えてよろしいのでしょうか? まず、個人的な体験から述べてみたいと思います。 かつて私は長距離ランナーでした。高校時代から約10年間競技を続け、駅伝などにも出場しました。トップランナーにはなれませんでしたがが、中四国の学生の大会で決勝に残ったり、県大会で入賞した時のうれしさは今でもよく覚えています。 競技生活は私にとってかけがえのないものでしたが、競争(競争心)を抜きにしては、あのような貴重で中身の濃い体験はできなかったと考えます。競争しつつより高い可能性を目指していく、ということは自分自身のエネルギーを引き出すことになったと確信しています。 また、(教育現場において)組織的に研究授業を行いながら他者の優れた授業に刺激を受けたり、民間教育研究団体で素晴らしい実践に刺激を受けながら、同僚や他の優れた実践家と切磋琢磨していくことも大切であると実感しています。 このように、個人の体験を(社会や歴史とのつながりを視野の外において)振り返った時、競争や切磋琢磨が自分の刺激になってきたことは疑いありません。 しかしながら、この間、現代社会において展開されてきた「市場原理主義を背景とするグローバル競争」について、どのように考えるべきでしょうか。際限のない「市場の競争」を背景に「非正規雇用率の増大」、「働く貧困層(ワーキングプア)の増大」、「セーフティーネットの崩壊」など、多くのひずみを生み出してきたと考えています。 (そして、私がブログ記事で問題にしたイギリスの教育改革 - とりわけサッチャー教育改革 - が、「市場原理主義」(⇒教育の市場化)と「グローバル競争の促進」といった思想を根本に持っていたことを忘れてはならないと思います。) 『週刊東洋経済』(2008年 1月12日号)が「北欧」の特集をしたのも、際限のない「市場の競争」を一定抑制しつつ「一人ひとりが尊重される社会」を構想・実現していく一つのモデルと考えたからでしょう。 (「競争」を背景に生じるさまざまな「現実」を検証するための大切な軸は「一人ひとりが尊重される方向に向かっているかどうか」であると私は考えています。) さて、話が大きくなりましたが、私たちの身近にある競争も上述した「グローバル競争」を背景に「健全な競争からズレてしまっている面」つまり「不安感をあおりつつ追い立てるものになっている面」はないでしょうか。 「もっと働け、さもなければ切られるぞ」、「もっと勉強しろ、さもなければ(社会からも)落ちこぼれるぞ」・・・。私は「競争しても学力行き止まり」の中で、「イギリス教育改革」を背景に心身に不調をきたした子どもたちの実態を取り上げましたが、ある意味で彼らは「現実の不健全さ」を敏感に受け止める感性を持った個人だといえないでしょうか。 NHKスペシャル「ワーキングプア」が放映された時、多くの人たちから共感が寄せられましたが、「結局は自己責任で負け犬になったのだ」といった主張もネット上で見られました。おそらく自らを「勝者」と規定しつつ述べられた意見でしょうが、その人たちは現代の「競争」を無批判に「身体化」している面はないでしょうか。 「競争に振り回されてはいないか」、「それを目的化してはいないか」、「それぞれの活動(例えば教育実践)の目的を見失いかけてはいないか」、といった問いかけをしつつ自己点検し「競争社会の功罪」を意識することは、現代社会においては極めて重要だと考えるものです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ よろしければ投票していただけますか (一日でワンクリックが有効です) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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競争の良い面も前半部分に取り上げられていますが
結局は否定的な立場である理解してよろしいでしょうか?(Yes But法) それとも競争には賛同する立場をとるが、あくまでも そのデメリットを単に見直しているということですか? (2009.02.27 10:02:43)
Psycheさん
競争そのものはよい刺激をもたらす薬にもなりうるが、弊害をもたらす毒にもなる。 プラスを拡大するためには弊害もきちんと見すえ、その回避・克服(あるいは軽減)の方法を見出していくことが大切である、という立場です。 (2009.02.27 18:32:40)
>プラスを拡大するためには弊害もきちんと見すえ、その回避・克服(あるいは軽減)の方法を見出していくことが大切である、という立場です。
ということは、弊害を主張しているが、基本的には 切磋琢磨に賛同する立場と理解してよろしいでしょうか? (2009.02.27 21:24:26)
Psycheさん
>ということは、弊害を主張しているが、基本的には >切磋琢磨に賛同する立場と理解してよろしいでしょうか? 結構です。私が民間教育研究活動に携わってきたのは様々な刺激(切磋琢磨することも含めて)を自ら求めたからです。 ただ、どのような切磋琢磨が望ましいか、という点については「実践的有効性」や「一人ひとりが尊重される方向性」を大切にしながら、検討する必要があると考えます。 (2009.02.27 22:42:13)
>>ということは、弊害を主張しているが、基本的には
>>切磋琢磨に賛同する立場と理解してよろしいでしょうか? >結構です。私が民間教育研究活動に携わってきたのは >様々な刺激(切磋琢磨することも含めて)を自ら求めたからです。 上記のしょうさんのお答えには、正直かなり驚きと衝撃を感じました。 今までおっしゃった内容、表現してこられたニュアンスに 隔たりがかなり見受けられたと感じざるを得なかったからです。 賛成とおっしゃるあなたの意見でありながら 賛成を支持する内容に触れられていないことからも苦しさを感じるのです。 この偏りを感じさせる部分は、今後の記事の内容によって 具体的な今後の方向を適切に示されることと思いますが、 今後の記事を見守っていくとしか言いようがありません。 それにしても釈然としないのは今までの記事とのギャップでしょうか。 (2009.02.28 01:27:27)
Psycheさん
>この偏りを感じさせる部分は、今後の記事の内容によって >具体的な今後の方向を適切に示されることと思いますが、(・・・) 民間教育研究活動で私自身が刺激を受けた実践などはブログ記事でも紹介させていただいています。 「弊害にきちんと目を向けなければ弊害は拡大していく」という立場は上記の記事でも示したとおりです。しかし、例えば「資本主義的な市場の競争」はないほうがいいのか、といえば「ある程度あったほうがいいだろう」と思います。 上記記事で問題にしたのは「競争の弊害に目を向けない市場原理主義」です。その生み出したマイナスははかり知れないと考えています。 (あなたは、繰り返し確認されましたが)、具体的な現実や状況を離れて「競争に賛成か反対か」ということはあまり意味のないことだと思います。 今後、ブログ記事等においても具体的に問題を考え、取り上げていきたいと思っています。 (2009.02.28 07:41:42)
否定的な側面ばかりを強調して取り上げられる(ネガティブキャンペーン)ので
てっきり反対派なのかと思っておりました。 誤解をされていた方は私以外にも多いのでは? まぁ、そのようなことは置いておくにして 子供の自主性ばかりを強調する教育にも問題が多いのは 現場を知るあなたであれば理解できるでしょう。 これについてはどうお考えですか? また、「一人ひとりが尊重される方向性」と述べられていますが 具体的にどのようなことを意味されるのか教えていただけますか? 今の方向性では尊重されていないという意味でしょうか? (2009.02.28 15:49:49)
また、しょうさんの「具体的に問題を考え」についてですが
たとえば中学生と高校生では指導スタイルが変わると思います。 具体的に言うと、高校生よりも中学生の方が強制力のある教育は必要でしょう。 まだまだ中学生は高校生に比べ未熟な子が多いのが現状です。 一般論ではなく具体的に考える必要性を言うのであれば 中学教育と高校教育でも色合いは異なってくるものですから それを十把一絡げに論じることにも無理があるという結論に達しませんか? (2009.02.28 15:55:16)
Psycheさん
>子供の自主性ばかりを強調する教育にも問題が多いのは >現場を知るあなたであれば理解できるでしょう。 「自主性を尊重する」といいながら何もしないというのは論外ですが、生活指導にせよ授業にせよ「しっかりと生徒の自主性が引き出され発揮されている実践」は素晴らしいと思います。 生活指導の例 http://sky.geocities.jp/shchan_3/dpro1.htm >また、「一人ひとりが尊重される方向性」と述べられていますが(・・・) >今の方向性では尊重されていないという意味でしょうか? 私は、「学校の力を高める 3」である生徒(S子)の言葉を取り上げました。 http://plaza.rakuten.co.jp/shchan3/diary/200802140000/ S子の発した言葉を受け止め、ここで語られている「学校差別」の現実が子どもたちを深く傷つけていること(一人ひとりが尊重されにくい現実があること)に目を開く必要があると考えます。 そこから出発して「学校も自分自身も素晴らしい」と実感できるような取り組み(前後のブログ記事で紹介)が大切であると考えています。 (2009.03.01 12:37:50)
Psycheさん
>具体的に言うと、高校生よりも中学生の方が強制力のある教育は必要でしょう。 >まだまだ中学生は高校生に比べ未熟な子が多いのが現状です。 一番具体的な検討ができる方法は、授業参観や授業の実践報告を受けて分析・論議するというやりかたでしょう。 あなたの主張は「そうかもしれない」と思わせる面もありますが、わたしが実際に中学校との交流などで参観した授業は「高校以上に子どもたちの興味関心や自主性を引き出しているいい授業」が多かったですね。 授業研究を積極的に行い、他国の例にも学びながら「よりよい授業・実践」を追求していくことが大切でしょう。 (2009.03.01 12:50:23)
つまり、競争が行き過ぎた問題点は取り上げるが
自主性をテーマにした教育には問題点がないという意味でしょうか? 前回のコメントでは他にも質問させていただいたのですが しょうさん自身がメンタル的な問題を以前抱えてらっしゃったことが 「肯定感」へ強く傾倒しているように感じました。 (2009.03.01 13:53:34)
Psycheさん
>つまり、競争が行き過ぎた問題点は取り上げるが >自主性をテーマにした教育には問題点がないという意味でしょうか? 常に問題点をはらみうるのが現実の実践です。ただ、競争と自主性は根本的に違うと思います。競争は活動への刺激(例えばゲームに景品をつけるといった方法を用いて)にもなりますが、「手段」として活用することがあったとしても、教育の「目的」と考えてはならないものでしょう。 それに対して、「個々人の自主性を高める」ことは教育の目標の一つだと考えます。その達成をを目指して失敗する実践はあるでしょうが、一つの目標として大切なものであることには変わりないと考えます。 最後のご指摘について・・・、私がメンタルな問題を抱えていたことは、確かに、S子の言葉により強く共感する要素かもしれませんね。 (2009.03.01 14:37:30)
私は単純に賛成か反対かのみに焦点を絞っている訳ではありません。
ただ、あなたの立場が見えにくかったので明確に理解しておきたいと考えたのです。 切磋琢磨することと自主性が相反するものとは思いません。 競争に弊害はあるとおっしゃいますが、生きる力という大義名分のもと 学力低下が起こっていることも事実です。 競争を取り上げネガティブキャンペーンを行う意図は何でしょう? 競争の必要性を認められているのであれば、そのバランスを考えていくのが筋ではないでしょうか? 他国から謙虚に学ぶ姿勢は同意しますが、やはり教育の中核は優秀な人材です。 フィンランドの教員は切磋琢磨する優秀な人間こそがなりえるものと思います。 そもそも日本とはまったく異なります。 勉強すれば順位があがる(できるようになる)ことから肯定感を得ることもありえます。 薬にも毒にもなりうるのは競争だけに限ったことではありません。 そう言いながらネガティブキャンペーンを行うあなたの姿勢は 非常にバランス感覚の欠けたものと思います。 (2009.03.02 23:54:32)
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