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カテゴリ:政治あるいは自由論
三日経ってしまったが、今回も選挙についての覚書を記す。
もし私が人間の進歩を信じる人間であれば今回の選挙を通過点として評価するであろうし、もし私が人間の進歩を信じない人間であれば今回の選挙を茶番劇の繰り返しだと評価するだろう。 そして一番の問題は、私がそのどちら側に立つべきかわからないということであろうか。 とにかく、政権交代が起こった、のである。 ■自民に入れた人々 もちろん、今回の結果を私が手放しで喜べないからといって、それは、「お上の言うことは聞けよ」などとのたまはれるような頭の固い「保守」の方々とは違った観点であることは言うまでもない。今回も自民に入れた人々はそういう人だろう。 先生の言うことなんだから聞けよ、とか、社長の言うことなんだから聞けよ、と同構造の発想において、日本政府の言うことなんだから聞けよ、といった発想が彼らにはあって、彼らは、それに堂々と異を唱える人間を憎む。 その裏には、「お上には間違っていてほしくない」という気持ちがあり、それがグロテスクに転じて、「お上が間違っているはずがない」という信念に変わっている方々であるわけだ。 民主党が、官僚と一体の自公政府に対して、嘘つき呼ばわりするものだから、彼らは、民主を憎んだ。いろんなことを言っていようが、動機は単純なものなのである。 そして、今度は民主政権ができるわけだが、そのときに民主に摺り寄れる人間なら、そういう「保守」は象徴的意味において「親米保守」なのであり、民主に摺り寄れず、時流に乗り遅れれば、そういう「保守」は象徴的意味において「反米保守」となるのである。 自民を応援していた首長たちが、民主が勝った途端、右往左往する、といった事態は、この国の政治家には、「親米保守」の方が多いことを意味しているわけだ。 まあ、それくらいの柔軟性が政治家には必要なのだろう。「反米保守」的な人間は、行き場がなくなって、「国のプライド」をネットの世界で叫ぶのが関の山というわけでね。結局、彼らは認められない自分のプライドを「国」なるものに託しているわけだが。 ■民主に入れた人々 さて、問題は、多数派を占める側である「親米保守」の方なのである。 今回、民主に票を投じた人々の中にも、この「親米保守」は多くいらっしゃる。というか、ほとんどがそうなのではないか。 ここでは、まず、その系譜を追ってみたい。 以前も書いたが、自民党という党は、無思想党であり、この国の戦後の無思想性に最もふさわしい党であった。むずかしいことは議論せず、「まぁまぁ、うまくやりましょう」と、「利権」でもってつながっていた党であるわけで、経済の拡大期には、それをただ調整し、うまく再分配するという役割だけがあった機関だ。多くの利益代表が集まり、利権を分捕っていく。 そして、おもしろいことに、官僚の役割というのは、そうした利益代表の自民党議員たちの調整にあったのであって、自分たちの生活保全という小市民主義と相俟って、美しい癒着構造を呈していたわけだ。 それがうまくいかなくなったときに「構造改革」が叫ばれたのであるが、利権分配だけの無思想党が、そんなことをできるはずがなかったことは言うまでもあるまい。 小泉は、それを「国民代表」というウルトラファッショな形でやろうとしたが、それは自民党のレゾンデートルを破壊するものであり、自民党を変質させてしまったわけだ。もちろんその意味においては、政治経済情勢が変化した現在において、何らかの構造改革が必要であることは間違いないが、小泉がやったのは、それをネオリベラリズム政策と結びつけて、「経済のためにいったん政治を停止する」というあってはならない方法であったわけで、ただの弱肉強食社会を生んだに過ぎない。本当は政治の構造改革が必要であったのに、愚かな経済構造改革をやった。 民主に入れた多くの人は、それにNOを出したと、自分では考えているのかもしれない。荒唐無稽にも「自民にお灸を据える」論が跋扈する所以だ。「民主にできるか不安だが」という枕詞を並べる人々は、もう、自民にだってできない構造になってしまっていることがわかっていない。 かつての自民党は、歴史的に役割を終えてしまっているのだ。お灸を据えようと据えまいと、この機能不全はどうしようもない。お灸を据えても、自民の学校の成績は決して上がらないのだ。 そして、もちろん、民主だって同じだ。民主に入れた人々は、民主の無思想性に期待しているのだろうが、そうした無思想ではやっていけない時代が来ている。 ■ズレ 小沢の手法は、本人の理想はともかく、旧自民=無思想的方法であった。もう戻ってくるはずのない昔を懐かしむ人々は、期待とともに、民主に政権を託した。その期待は、応えられることはないだろう。 しかし、民主の本流には、輝かしい理想も無くはない。 民主党の本流(と呼んでもよいのだろうか?)が行おうとしているのは、問題解決よりも、トランスパレンシーを高め、国民の政治へのコミットメントを高めるための施策だ。 今までの官僚主義が、国民が知らないでも良い(と彼らが考える)ことは隠し、自分たちで良いように考えてきたのとは異なる価値観を、民主党は持ち込もうとしている。 すなわち、良い政治を政治家がするのではなく、国民に政治を見えるようにし、国民が判断できるだけの材料を提供しようというものだ。 そうした思想が垣間見られるところに、私は一縷の期待を民主に対して持っている。 だが、民主党の政治家の多くは、そうした理想よりも、自民党的に自分の身を案じている人々であるし、何よりも、国民の期待とのズレが大変気になる。国民が復古を期待したとき、民主が、どのような振る舞いをするのか、半信半疑で私は見る。 ■真の構造改革 現代の閉塞感は、下手をすると、社会の紐帯を破壊し、グロテスクな形での変革を呼び込む危険を持っている。 政治にいま構造改革が必要だと思うが、それは、よい政治家を選べばよい、などといったものではなく、より民主的な変革でなければならないはずだ。つまりは、良いとか悪い、正しいとか間違っているを超えて、国民が自身で選ぶ、という契機の導入に違いない。それは、国民投票の乱発ではなく、正しい情報開示のもと、政党が争点を明確にし、国民が判断するという手順となっていなければならないだろう。 そうした構造改革の成否が何にかかっているかといえば、国民が無思想性と決別するということに尽きる。「保守」との決別である。それができるかどうかが、今後の政治の課題だろうと思う。そして、それは見たくない現実を見て、最善ではなくても考えて議論して結論を出すというものであるだろう。どっちに賛成ですか?の国民投票や世論調査とは別次元のものでなければならない。 簡単な選択を他人事的に行う方が楽だし、票も集まるし、視聴率も取れる。そういう時代だ。それを超えられるかどうかが課題だろう。大変難しいし、これはもしかすると代議制民主主義からは取り去ることのできないアポリアなのかもしれないが、ひとまず、私はそちらの希望を持ってみたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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