昨日は私の誕生日
4月26日に拙著『風が開いた書斎の窓』出版を依頼していた南方新社からお昼頃に納品があり、その日の夜には、大阪に勤務している次男が私の誕生祝いにJRで鹿児島に帰省して来てくれることになりました。次男を迎えに鹿児島中央駅に行く途中、車中で私が妻に明石にいる長男夫婦は今回のゴールデンウィークを利用しての帰省は無理だろうなとつぶやきましたら、「二人一緒に都合を付けるのはなかなか大変じゃないの」とにべもない返事。「それじゃ、拙著の出版を祝う家族会は5月頃にでも神戸で開こうか」と提案しましたら、これにもまた「そんなに急がなくていいじゃないの。6月頃にしたらどうなの」とのつれないお返事。妻は私の透析治療のための週3回の病院通いに加えて、最近になって自分の母が腰の骨を痛めたため手術を行って入院しており、そのための病院通いもあり、なにかと忙しいのだろうなと思いながらも、私は妻のこんなつれない返事に些か機嫌を損ねて車内で黙り込んでしまいました。 鹿児島の拙宅で一泊したは次男は翌日の4月27日の夕刻にはもう大阪に帰るとのこと、鹿児島中央駅近くの寿庵という黒豚料理専門店のお店でお別れの夕食をすることになり、私が先にお店の人の案内で妻が予約してくれていた部屋に入ったとき、ビックリ仰天、そこには全く予想もしていなかった二人の人物たちが待ち受けていました。なんと明石に暮らす長男夫婦だったのです。とても驚いたのですが、後で聞くと妻と子どもたちで私の古希と出版を祝うサプライズ企画を練ってくれていたとのことでした。いつも迷惑を掛けてばかりいる妻と多忙な中を都合を付けてお祝いの会を開いてくれた子どもたちの優しさにただただ感激、いゃー、子どもたちはひねくれ者の父親に全然似なくて本当によかった、よかった。 私から兄弟二人に拙著の贈呈式の後、彼らからは私への古希の祝いとして風呂敷に包まれた桐の四角箱に入った大きくてずっしり重たいものをプレゼントしてもらいました。額縁大の大きさですから、もしかして私の遺影かな、なんてこともふと頭を横切りましたが、いやいやまだちょっと早すぎるだろうと、風呂敷包みを解いて箱を開けてみるとそこには毎年4月27日(私の誕生日ですね)の毎日新聞の記事一面と番組欄を2016年まで69年間を裏表両面に纏めたものでした。これに次男がサントリーのウィスキー「響」17年も添えて贈ってくれました。 私は高校生の頃、凡河内久躬恒(おおしこうちのみつね)が詠んだ「今さらに なに生ひいづらむ 竹の子の 憂き節しげき世とはしらずや(我が子はいまは筍のように元気にすくすく育っているが、人生には辛いことがの多いことをいまは知らないのだろうな)なんて和歌に強く共鳴するようなかなり屈折した人間でしたが、こんな嬉しい誕生日を迎えるとは想像もしていませんでした