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ポンコツ山のタヌキの便り

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2015年12月13日
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カテゴリ:エッセイ
     箸の源流

 日本の食文化の特徴の一つに箸の使用がありますが、大昔は手掴みだったそうで、6、7世紀頃に中国から箸が渡来し、次第に普及していったと言われます。では中国ではいつ頃どのような理由で箸が誕生し、食事に使う道具として普及していったのでしょうか。

 そのことについて太田昌子著『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が詳しく調べています。同書は、中国古代文献から箸使用の定着について考察するだけでなく、さらに中国の考古学界の発掘成果から箸の出土を考察し、さらに箸が発生し普及した理由等について食器具類・食事様式・居住環境の変化と関連させて考察を加えています。

 太田昌子は同書の50頁から57頁において、二本の棒でものを挟みあげる用具としての箸は、はるか三千年前以上前の殷代の遺跡から銅製の箸が発掘されているが、これらの箸は熱いものを挟み取る冶金か調理の道具であったろうと推測しています。そんな箸が食事用の道具として普及する過程については、同書の242頁から243頁につぎのように要約しています。

 「まず住居と食事様式の 変化、特に手食から箸使用への変化との関連について考察してみた。
 それにさきだち、新石器時代から春秋戦国時代ごろまでの住宅建築の発達状況を見ると、貴族階層の住む住宅は殷時代頃より次第に発達して、戦国時代には瓦葺きの高層建築も見られるようになった。このような広壮な貴族階層の住宅では、例えば調理は奴婢たちが別棟の厨房において行い、主人側の家族は別棟に運ばれた食物を、従者の介添えを受けながら食べていたと思われる。それに比べ一般庶民の住居は、戦国或いは漢時代においてさえ、萱葺き屋根の粗末な作りで、大きさも一と聞か二た間程度の狭小なものであったようである。従って調理と食事の場も分離せず、調理された食物はただちに家族たちに供せられたと思われる。そしてこのような環境であってこそ、元来調理用具であった箸がそのまま食事の場にも取り込まれて行く可能性があったと考えられる。
 一方食事作法についての意識には、中国古代の支配者階級の中で重んじられていた伝統的儀礼に束縛されていた貴族たちと、それとは全く無関係の一般庶民との間に、大きな差異があったと考えられる。貴族たちは、自らの地位と権威の保全のためにも伝統的な礼法に忠実であることを要求されたに違いない。したがって礼法で定められていた直接手で食べるという食事様式を、新しく箸を使用する方法へ変えるという発想は、全く生まれなかったと考えられる。一方庶民階層の人たちは、窮屈な礼法の埒外に置かれていたために、因習に縛られることもなく、便利でしかもよりおいしく食事を楽しむ方法をひたすら追い求めたと思われる。そしてこのような自由な雰囲気の中でこそ、元来は調理用であったと思われる箸のような用具でも、さほどの抵抗感なしにごく自然に食事の場へ取り込まれていったのではないかと考えるのである。
 そしてこのような食事様式の変化をよりいっそう促進させた要因として、春秋から戦国時代にかけて次第に人口が増加し、商工業も発達していった都市という環境の影響が大きかったと考える。その理由の一つは、材料の入手もまた加工も比較的容易で、値段もさほど高くはなかったと思われる箸は、早くから商業ペースに乗り、市場でかなりの数量が売買されたと考えるからである。
 そしてまた、当時は酒や塩、干し肉などの食品が市場で売られたのみならず、調理品も売られるようになり、街頭で食事を楽しむという習俗も生じつつあったようであるが、このように家族という閉じられた場から公共の場へと食事が開かれた時、新しい 箸使用習俗の定着と普及は大いに促進されたと考える。
 さらには、街頭において一定の値段で提供された調理品は、恐らく碗のような比較的小型の食器に盛られていたと思われるが、小型の碗は手では食べにくく箸やスプーンの方が適しているので、このような小型の食器の使用が広がるに従って箸使用の習俗もまた広がっていったことも考えられる。」

 太田昌子は、春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)の社会的、経済的大変動の時期に、手食から箸使用の食事へと変化したことはほぼ間違いなかろうとしています。

 ところで、『箸の源流を探る』の著者の太田昌子は私の母で、息子の私から太田昌子の経歴と彼女の古代中国の箸の起源と普及の研究のかかわりについて紹介させてもらいます。

 母は、1993年3月に鳴門教育大を定年退職し、父と一緒に私の家の近くに引っ越してきました。私が両親の家を訪れますと、いつも母は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ってくれました。母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマに愛情を注いでいたのです。また、中国古代史がご専門の奈良女子大名誉教授の大島利一先生から箸の研究についていろいろアドバイスのいただいておりましたが、その大島先生からお手紙が届くと、いつも恋人からの手紙を見せるように嬉しそうに私に見せてくれました。私もよく母から箸の研究の原稿についての意見を求められ、根がヤクザな私は「もっとはったりを利かせて読者に興味・関心をもたせないと駄目だよ」なんて言っていましたが、生真面目な母にそれは無理な注文だったように思います。

 母の箸の研究を纏めた『箸の源流を探る』は残念ながら遺著となってしまいました。母が亡くなる前日の朝、私は両親の家を訪れているのですが、そのとき母は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、私に暖かいコーヒーを出してくれました。その後いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるとは想像もしていませんでした。翌日には解離性大動脈瘤破裂のために突然あの世に旅立ってしまったのです。

 母の葬儀も全て終わり、父と一緒に両親の家に戻ったとき、母の書斎の机の上に愛用の広辞苑が開かれたままになっているのが目に入り、突然なんとも言えぬ寂寥感に襲われ、胸に熱いものがこみ上げて来ました。

 私の母は、1923年5月17日に日本統治時代の台湾の台北市大和町に市川實雄、まつよの次女とて生まれ、1943年に奈良女子高等師範学校の家政科を戦争中のために3年半で繰り上げ卒業し、戦後まもなく奈良女子大文学部附属高等学校・中学校で家庭科の教諭となりました。本来は食物学を主な研究領域としていたのですが、1960年代末頃から独学で中国の古文(漢文)のみならず現代文を習得して古代中国の箸の起源とその普及に関する研究を開始し、同校の校長をされていた奈良女子大の大島利一先生(甲骨文や金文に造詣の深い中国古代史の研究者)から激励されたこともあり、同研究に没頭するようになりました。そして、かつて奈良女附属高校の同僚だった奈良女子大の中塚明先生(日本史研究者)の紹介で研究成果が汲古書院から出版されることとなりました。しかし、その原稿が脱稿し、校正も初校を終えた後、『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が出版される直前の2001年1月19日に解離性大動脈瘤破裂で急逝しましたので、同書は母の遺著となりました。享年77歳でした。

 なおこの拙文に加筆して拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページに「母の遺著『箸の源流を探る』」と改題して新たにアップしましたので、興味がございましてらご覧ください。
           ↓
   http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#hasi







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最終更新日  2015年12月25日 20時39分44秒
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 Re:私の母の太田昌子と『箸の源流を探る』(12/13)   クマタツ1847 さん
 お母様のご著書「箸の源流を探る」のことを初めて知って感動いたしました。

 ある意味で大変地味のようにみえて、その実、日本人の三度々々の食事に欠かせない「箸」の研究に没頭されていたのですね。着眼点が私みたいな凡人には考えも及ばないことです。

 そういうお母様の様子をいつも身近に見ておられたやまももさんが中国に興味をもたれてその道に進まれたのが、今日やっとわかった気がしました。 (2015年12月15日 13時27分41秒)

 Re[1]:私の母の太田昌子と『箸の源流を探る』   やまもも2968 さん
クマタツさん、母の遺著についての拙文にコメントを下さり、深く感謝いたします。

確かに、母が私たちの日常生活に身近な箸の起源に着眼し調べようとし、そのために中国の資料や研究論文を読むために40歳代から独学で中国の古文(漢文)を勉強し始めたことには感心させられます。私も中国語を学んでいたので、その読解力や考察力には敬服させられました。自分の母とはいえ、流石に幼いころから才女の誉が高かった女性だと新めて見直したものです。

そんな母は、定年退職後に息子の私の鹿児島市の家の近くに家を建てて引っ越して来たのですが、よく執筆途中の箸の起源についての原稿に意見を求められました。しかし、根がヤクザな私は「読み手に興味関心を持たせるようにもっとハッタリを利かせた方がいいよ」なんて非アカデミックなことばかり言っていたものですが、幸か不幸か生真面目な母には全く通用しなかったようです。

なお、私自身は読書好きな母から子ども向けに書かれた史記などを購入してもらって中国への関心を抱いたことは間違いありませんが、大学に入学して中国語や中国の近現代史を学ぶようになったこととは直接関係がなかったように思います。母は幼い私のためにオルガンや月刊誌『子供の科学』を買ってくれましたが、諺に「馬を水の所まで連れていっても水を飲ませることはできない(You can lead a horse to water, but you cannot make him drink)」という言葉がありますように、残念ながら私はそちらの方面にはほとんど関心を示しませんでした。 (2015年12月15日 16時54分44秒)


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