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2008.09.21
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カテゴリ:史跡巡り
 「やれ、金吾なる者は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を崩せ。突けや。雑兵雑輩には目もくるるべからず。いちずに金吾が旗をめがけよや、金吾を討て、金吾を地獄におとすのに牛頭馬頭(ごずめず)邏卒(らそつ)の手をば借りるべからず、汝(わい)らが地獄の邏卒のさきがけをせよ」
 と、喚(おめ)き叫びつつ敵陣へ乗り入れてゆく吉継の声、姿は、鬼神が憑り移ったかのごとくであった。大谷勢は、死兵と化した。―司馬遼太郎著「関ヶ原」より

 関ヶ原の戦い最大のクライマックスといえば、金吾中納言小早川秀秋の寝返りの場面だろう。
 元々、石田三成に恨みを抱いていた秀秋だったが、断りきれず西軍に参加。しかし、秀秋は松尾山山頂に構えた陣中で戦況を見ながら、どちらに付くかまだ迷っていた。あまりの決断の無さに苛立った徳川家康は、松尾山に向かって威嚇射撃を開始。この威嚇が秀秋の迷いを吹き飛ばした。
 小早川隊は一気に松尾山を駆け下り、麓に布陣していた西軍の将・大谷吉継隊へ六百挺の鉄砲を浴びせながら突撃した。冒頭の台詞は、秀秋の寝返りを聞いた(この時吉継は病で既に目が見えなかった)吉継が、小早川隊を何とか食い止めようと死を覚悟して向かいながら、声を振り絞って発する台詞である。
 結局、この寝返り(に加えて対秀秋用に配置していた吉継指揮下の4隊も、まさかの寝返り)により大谷隊は壊滅し、吉継は自刃。そしてこれを機に西軍は崩壊した。
 吉継は自刃の際、こう言い放ったともいう。
「金吾め!人面獣心なり。三年の内に祟りをなさん!」
 合戦後、秀秋は西軍の副大将をつとめて八丈島へ配流された宇喜多秀家の後任として、備前岡山城の城主となった。しかし関ヶ原の戦いからわずか2年後、精神を病んで21歳の若さで他界。
奇しくも吉継の言葉通りとなってしまった。

 岡山城から車で北西におよそ10分のところに、黄門山瑞雲寺という、地味ながらもなかなか立派な由緒ある寺がある。この寺の本堂内には、今や日本において裏切り者の代名詞となっている小早川秀秋の墓塔があり、地中にはその亡骸が納められている。
 「関ヶ原」を読み終えたのは陽が傾きかけた時刻だったが、何となく思い立って瑞雲寺へと向かった。よっちゃん(大谷吉継)を殺したヤツとはいえ、彼もまた気の毒な人なのであるしょんぼり
 ちなみにこのお寺の名前は、秀秋の法名“瑞雲院殿前黄門秀厳日詮大居士位”から。

 突然の訪問にもかかわらず、堂内に上がらせていただいた。
日蓮宗のお寺ということで、中央には日蓮聖人を祀ってあり、向かって右側が秀秋の廟所、そして左側にはなぜか加藤清正が祀られていた。なんでも秀秋と清正が親密だったからだそうな。
 秀秋の廟所に並ぶ、慶長の頃より伝わる木像や位牌等をしげしげと見せていただいた(墓塔は非公開)。西軍びいきとしてはちょっと複雑な気分になった…。

 当時は“利”で動くのが当たり前の時代だった。みっちゃん(石田三成)やよっちゃんのように“義”を貫いた生き方の方が珍しかったのだ。誰が秀秋を責められようか!? 

 日本茶 プロフィール欄の写真を今日から暫し、とある戦国武将の印影に変えてみましたほえー
ここ最近、やけに戦国づいてて止まりません~(^^ゞ





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Last updated  2008.10.15 19:05:39
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