『認識と言語の理論』学習会の振り返り3
○第3回(2015年1月25日) 今回の範囲は、「第2章 科学・芸術・宗教」4,5,6,7であった。「4 欲望・情感・目的・意志」については、まずこの節では、生物と無生物のあり方が説かれ、次に動物にも人間にも共通する感覚が扱われ、さらに人間の特殊性が他の動物と区別して説かれていくという展開になっていることが、他会員から指摘された。また、第2章のこれまでの流れが、大きくは学問の発展史について説かれたものであるのに対して、この4節では「感覚」という認識の原点から説きなおされている展開となっていて、これはスミスが「天文学史」の後に「外部感覚論」を執筆した流れと共通していて、論理的必然性があるのではないか、という指摘もなされた。私は、イメージとしては、これまでが概念的・普遍的認識について、4節は感覚的・特殊的認識について、それぞれ説かれてあるのではないかと述べた。「四角い」というのが客観的な物のあり方を捉えているのに対して、「甘い」は感覚のありかたを取り上げているという記載に関しては、他会員から、これは哲学史上大きな問題であって、素朴に考えれば三浦さんの言うとおりだが、バークリ的に考えると、「四角い」というのも感覚のあり方にすぎないことになる、唯物論的な認識論では、このバークリ的段階をさらに否定して、ヨリ高い段階で初めの素朴な考え方と結論は一致しながらも、軽くバークリを批判できるレベルで感覚の問題を扱えないといけない、との指摘があった。動物が欲望を直ちに行動へと移すのに対して、人間は目的という認識に統括されながら欲望の実現を目指すということについては、ヘルバルトが同様の議論をしていたとの指摘が他会員からあった。目的と意志との違いについては、他会員から、目的はゴールのイメージを静的に捉えたもので、意志は目的を実現する過程の動的なイメージで捉えられるのではないかという説明がなされた。自由と必然性との関係については、ここで挙げられているヘーゲル、マルクス、エンゲルスのほかに、ディーツゲンも同様の指摘(対象の構造を把握してこそ自由に振る舞える)をしていることを私が述べた。 「5 想像の世界――観念的な転倒」については、色々なことが詰め込んで説かれているという印象で、ともかく「観念的な転倒」とは何かを確認しようということになった。端的には、観念的な世界の中では、観念的な自己に対峙している対象はあくまでも観念的な自己にとっては客観的な存在であるが、現実的な自己にとっては自らが創り出した観念的に対象化した存在でしかない、これを三浦さんは「観念的な転倒」と呼んで、地図や研究や芸術をこの論理で説き明かしているのではないか、ということになった。他会員からは、「われわれの生活は、いわば人生の旅路である」という記述が『弁証法はどういう科学か』の冒頭部分の記述を思わせるものであり、また「地図」というものは、南郷さんも説いているように、学問構築の上で非常に重要ではないか、という指摘があり、私からは、三浦さんの論の展開は、文学や芸術を論じる際には一段とキレを増すように思うという感想を述べておいた。 「6 科学と芸術」については、他会員から、この節は論旨が非常に明快であり、また、平面的に並べて論じられるかどうかという問題は、その取り上げ方によるということに関わって、三浦さんが馬とトラクターなどを例に挙げて説いておられる部分が分かりやすく素晴らしい論理である、との発言があった。その後、科学と芸術の性格や連関について観念論的な解釈がなされていることについて、その3つの特徴を確認していった。第1は、主に、特殊性を一般性に解消するご都合主義について述べられているが、ベリンスキイは芸術を政治利用しようという意図もあって、こうした立場に立ったことを話し合った。第2は、科学はノン・フィクションであり芸術はフィクションも許されることが理解されていないことであるが、ここでは科学におけるフィクション(虚数など)は「否定の否定」の実践として、意識的に利用されているにすぎず、また現実の立場に復帰すること、数学的認識も哲学史上でどのように扱うかが議論されてきたこと、ライプニッツのモナド論も直観的に数学的認識が反映しているように思われること、などを議論した。第3は、科学は現実の世界の法則性に基礎づけられて、個人を超えた体系として発展していくのに対して、芸術はあくまでも個人の認識に基礎づけられているために、作品が自立するという違いが存在するが、このことが理解されていないことである。ここでは科学と芸術の「基礎」が論じられているが、その着眼が素晴らしいと感じたと私が述べた。 「7 宗教的自己疎外」については、他会員から、個々も論旨が明快であり、自然宗教(自然の事物の擬人化の段階)、芸術宗教(古代ギリシャの宗教?)、啓示宗教(キリスト教)というヘーゲルの説く宗教の発展史や、フォイエルバッハの宗教批判(三浦つとむ『大衆組織の理論』の初めの方に詳しく説かれているので参照するとよい)は押えておいた方がいいとの発言があった。また宗教と法律や資本制生産の共通点を掴んで、宗教批判から法律批判、さらに経済体制への批判へとつながっていく論理構造を正しく掴むこと、宗教歩繁栄の背景には資本制生産という宗教との共通点を持つ経済体制が存在することを理解する必要があること、などを話し合った。