|
カテゴリ:取り敢えずの記
[ 鳴鶴在陰、其子和之。我有好爵、吾與爾靡之。(風沢中孚・九二) ]
繋辞伝からスタートした易経ですが、何故か魅かれる一節。 オーソドックスな読み下しは・・・ 「鳴鶴の陰に在り、その子これに和す。 我に好爵あり。吾、爾とこれに靡(よ)わん。」 占いの玉手箱より となるらしい。 私は出来るだけ頭から読むのが好きなので、 「鳴鶴の在すは陰、其子和すは之(なり)。 我有す(ところ)は好爵にして、吾が與(くみ)す(ところ)は爾の之に靡う(なり)。」 みたいに勝手読みしてしまう(苦笑)。 我と吾は使われ方が違うとか、本当は微妙らしい。 が、分からんので置いておく(^^; 大きく異なってしまうのが後節の後半。 少し読み戻し(?)が入ってしまうのだけど「與」をオーソドックスの「○と」と読むと、どうしても違和感があって、かと言って「與(与)える」というのも前節との繋ぎに違和感がある・・・ てなことで、こんな↑読み方をしてしまう。 まあ間違っているんだろうけど、気持ち良く読めるのでいっか(笑)。 こういう読み方をしていられるのは、やはり専門家でない素人の特権かな、と。 そういう点、当然ながら亞さんは非常に研究もされた末の持論があっても全開というわけにもいかず、一日一言でも苦心されているのが伺われて大変だろうな、と想う。 また、そういう所がプロとアマとの違いなのかな? もっとも、どんな読み方をしても名文は名文なんだけど(爆)。 こんな風に美しく響き合う姿、そりゃ、どちらにしても「靡い」ますわな・・・みたいな。 周易は「占術(易断?)としてはどうなの?」という見方もあるらしく、確かに五行や梅花に魅かれるのは分かる。 ただ個人的には、易経の「残酷なまでの美しさ」は周易に十分、現れている気はする。 易断そのものは、その後に来ないと、どれだけ的中するって言っても受け容れられるのだろうか・・・?と想ってしまう。 受け容れられない易断は、ただ予知しただけということで終わってしまう。 受け容れられないということは、逆に言えば自分が受け容れてないってだけなんだけどな。 ああ!考えてみりゃ、そりゃあ俺の読み方のことだった(爆)!! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
【亞】2さん、こんにちは。
>プロじゃなくて、アマの成れの果て。 >生粋のアマか?(爆) ----- いえいえ、とても尼とは・・・アレ?変換が・・・海女?? ああ!亞魔・・・(ぉぃ 爆) どちらにせよ、素晴らしい読みを邪推堪能させて頂いておりますm(_ _)m (2012.02.25 10:40:14) |
|