日光街道〈6〉草加松原~越ヶ谷宿
東武伊勢崎線「獨協大学前〈草加松原〉駅」で下車し、東へ200mほど歩くと綾瀬川沿いの遊歩道に出る。その遊歩道が旧日光街道。百代橋の下から街道歩きを始めた。コバトンちゃんやっ!駅でもコバトンちゃんの啓蒙ポスターをよく見かけた。「エスカレーターでは立ち止まろう!!」のポスターね。立ち止まる人がずらっと左側に1列になってる間はなかなか浸透しないルールだろう。私も率先して右側に立つ勇気はなかった。あるデパートで緊急停止された経験から、手すりを持って立ち止まると決めている私は、このルールが早く全国に広がってほしいと願っているが、今の埼玉の様子では難しそうだ。松尾芭蕉の文学碑がある。ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、、、『おくの細道』の「草加」の文が記されている。松並木の道を北へ。草加松原の北端に着いた。この日の歩き始めから600m。南端からの草加松原全体は1.5kmある。そのまま綾瀬川沿いを進み、外環自動車道の下をくぐると、芭蕉と曽良の姿が描かれている壁画がある。こんな所に! と思う地味な場所にあるが、北からお江戸に向かって歩いている人に対して、「ここからはいよいよ『おくの細道』の草加だよ」というアピール効果はあるだろう。振り返って外環道外環道の下から500m北上したところにある、綾瀬川に架かる橋を右岸から左岸へと渡る。「蒲生大橋」という名の橋。この橋を渡ると、草加市から越谷市へ入る。蒲生大橋のたもとに大きな木が見える。大きな木があるところは「蒲生の一里塚」街道沿いに一里ごとに築かれた塚で旅人の目印。この「蒲生の一里塚」は埼玉県の日光街道筋で唯一現存するものだ。150mほど綾瀬川左岸を歩き、綾瀬川が左にカーブするところで川沿いから離れて右側の直進ルートに入る。ここで綾瀬川とはさようなら。しばらく行くと県道49号線に合流する。けっこう交通量の多い49号線。JR武蔵野線と東武伊勢崎線の乗換駅近くの交差点まで来た。前方の高架はJR武蔵野線。ほぼ同じ場所にあるのに、JRは「南越谷駅」で東武は「新越谷駅」。この交差点横にある「源氏」という料理屋さんの角に石碑がある。馬頭観音ね。天保五年に建立とある。武蔵野線の高架下を通って北進する。県道49号線の沿線は、郊外都市の普通の景色。越谷は関西に住んでいるとあまり馴染みがない地域だが、東武に乗れば直通でメトロの日比谷線・半蔵門線に入っていけるので交通至便。レイクタウンがあって、越谷じゃないけれど近くにはららぽーととCostcoがある。獨協医科大・順天堂の附属病院もあって住むには良さそう場所だ。この年になると病院は気になってしまう。だから中古マンションでも高いだろうなぁ。歩きながら終の棲家に良さそうな場所をリサーチしてしまってる(笑)中山道を歩いてお気に入りの終の棲家候補地は「さいたま新都心」だけど、あそこも手が出せそうにない。首都圏の不動産はやはり別格様だ。前方に目印にしていた歩道橋が見えてきた。この瓦曽根歩道橋を過ぎたら、49号線から離れて西よりの道を進む。左が旧街道。歩道がないので歩くのに緊張感が必要。そこそこ交通量がある。(なるべく車が少ない時に撮るようにしている)東武〈越谷駅〉への道との交差点。高層マンションのあるところが越谷駅だ。旧街道を歩いて気づいたのが、人形店が複数あったこと。越谷は鴻巣や岩槻と同じく「人形の町」で、越谷ひな人形は江戸時代安永年間に始まった200年以上の伝統があるものだった。越ヶ谷宿の中心だった地区に入ると、街道沿いにぽつぽつと趣のある建物を目にするようになった。元は郵便局だったピンクのレトロ建築現在は診療所。国登録有形文化財の木下半助商店鍛冶忠商店店の軒先に箒が吊るしてある昔懐かしいスタイル。こちらは古民家を生かして、ショップとレストランが入っている『はかり屋』という施設。『はかり屋』は明治38年に建てられたお屋敷だ。駐車場の案内板の位置、どないかならんかね。旧街道は元荒川を渡る。元荒川は名前のとおり元々の荒川本流で、熊谷市の久下・佐谷田を起点とし越谷レイクタウンの近くの中島で中川に合流する。中山道歩きで熊谷の「久下の長土手」を歩いた時に、元荒川について触れたのを思い出した。あの高層マンションは駅近マンションだな。東武〈北越谷駅〉が近づいてきた。この日は北越谷駅筋の交差点で街道歩きを終えた。歩いた距離は6.9km。