平安宮内裏 清涼殿跡 〈百人一首ゆかりの地〉
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな 右近しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見38番右近、40番平兼盛、41番壬生忠見の歌。右近は醍醐天皇(885-930)の中宮 藤原穏子に仕えた女房。平兼盛(?-991)は貴族。壬生忠見は歌人。この三人は960年、天徳4年に内裏清涼殿で村上天皇によって行われた「天徳内裏歌合」に参加している。“ゆかりの地”は「平安宮内裏清涼殿跡」にした。上京区の新出水通を浄福寺通との交差点から西のほうへ。右側には『弘徽殿 南邸』という町家1棟貸しの宿泊施設がある。そこに石碑がある。「平安宮内裏弘徽殿跡」弘徽殿は帝の日常の住まいである清涼殿から最も近い、後宮で最も格の高い殿舎。『弘徽殿 南邸』に泊まったら、弘徽殿の女御さまになった気分になれるかもしれない。そのすぐ前、新出水通の南側に「平安宮内裏清涼殿跡」の案内板がある。ここが帝の生活の場所となっていたのは宇多天皇から後朱雀天皇のころまで。清涼殿跡から100mほど西には千本通があって、そこに、こんな案内板があって、じっくりと見てしまった。「采女町跡」の案内板采女町は、天皇の食膳の給仕に携わる女官(采女)の宿舎・詰所。采女には諸国から容姿端麗な良家の子女が選ばれていたそうだ。当時の面影はないけれど、平安の昔に脳内でタイムスリップして旅することができる楽しい場所だ。