漱石の生涯90:漱石の妻・鏡子のポンコツ
ところがここにもう一つ困ったことがありました。というのは私は昔から朝寝坊で、夜はいくらおそくてもいいのですが、朝早く起こされると、どうも頭が痛くて一日じゅうぼおっとしているという困った質でした。新婚早々ではあるし、夫は早く起きてきまった時刻に学校へ行くのですから、なんとか努力して早起きをしようとつとめるのですが、なにしろ小さい時からの習慣か体質かで、それが並みはずれてつらいのです。それでも老よりの女中がいたうちは、目ざとく起きてくれるのでまちがいもありませんでしたが、さてそれを帰してからというものは、時々朝の御飯もたべさせないで学校へ出したような例も少なくありませんでした。 そこでこれではならないというので、枕もとの住に八角時計をもって来てねていますと、チンと半時間打つたびに驚いて起き上がったりする滑稽を演じなどして、結局眠り不足と気疲れとで、ほんとにしばらくの間ぼんやりしていました。自然やることなすことにへまが多いのでしょう。 「おまえはオタンチンノパレオラガスだよ」 そんなふうにからかうように申します。オタンチンノパレオラガス。どうもむずい英語だ。どうせおまえはとんまだよといった意味なんだろうとは察しましたが、はっきりしたわけがわからない。向こうではおもしろがって、なにかというとしきりにオタンチンノパレオラガスを浴びせかけます。いずれむずかしい横文字に違いないと思って、訪ねておいでになるお友達でいくらか心安くなった方をとらまえてはたずねます。しかし誰あって笑ってばかりいてわけを教えてくださる方がありませんでした。オタンチンノパレオラガスという言葉は、そんなことを言われなくたって後々までも、妙に思い出の深い言葉となって頭に残っておりました。(夏目鏡子 漱石の思い出)