|
全て
| カテゴリ未分類
| 新着テキスト
| 今日にちなむ
| 修正テキスト
| リンクのない新着テキスト
| 明治世相百話(リンクのない新着テキスト)
| お知らせ
カテゴリ:リンクのない新着テキスト
真野博士
九州帝国大学総長真野文二博士は、先年日比谷で電車に衝突《ぶつつか》つた事があつた。その折総長は小鰻《こえび》のやうに救助網の上で跳ね廻りながら、 「馬鹿な運転手めが……」 と首を縊《し》められたやうな声をして我鳴つたが、運転手の方でも負けぬ気になつて、 「禿頭の間抜め!」 と怒鳴り立てた。禿頭といふのは真野博士が色々の智識を蔵《をさ》めてゐる頭の事で、林伯や児玉伯や馬鈴薯《じやがいも》男爵などの頭と同じやうにてかてか光つてゐる。 それ以後真野博士は電車は怖いものに定《き》めてしまつて、どんな事があつても電車にだけは乗らうとしない。 その真野博士が去年の夏、樺太《かばふと》へ往つた事があつた。知合《しりあひ》の男に二頭立の馬車召周旋して呉れるものがあつたので、博士は大喜ぴでその馬車に乗つた。だが、電車の運転手に発見《みつけ》られた禿頭だけは樺太人《かばふとじん》に見せまいとして、大型の絹帽《きぬぼう》をすぽりと耳まで冠《かぶ》る事を忘れなかつた。 博士が乗つた馬車の馬は、二頭とも馬車馬としては何《なに》の訓練もない素人の、加之《おまけ》に気むづかしや揃《ぞろ》ひと来てゐるので、物《もの》の二|町《ちやう》も走つて、町の四つ角に来たと思ふと、一頭は右へ、一頭は左へ折れようとして喧嘩を始めた。万事に公平な真野博士は、敦方《どちら》の馬にも味方をし兼ねて、 「お、お、お……」 と蒼くなつて狼狽《うろた》へてゐる。 馬車馬の喧嘩は樺太《かばふと》でも珍らしい事なので、さうかうする間《うち》に其辺《そこら》は見物人で一杯になつた。どちらを見ても知らぬ顔なので、博士は急に東京の宅《うち》が恋しくなつて泣き出しさうな顔を歪めてゐた。気短《きみじか》な馬はとうと噛合《かみあひ》を始めた。その拍子に馬車が大揺れに揺れたと思ふと、大型な絹帽がころくと博士の肩を滑り落ちた。無慈悲な見物人は滑《すべ》つこい博士の頭を見て声を立てて笑つた。 それ以来、博士は二度ともう馬車に乗らうと言はない。電車、馬車11敬愛すべき博士の交通機関の範囲は段々狭くなつて来るやうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年04月16日 21時57分35秒
コメント(0) | コメントを書く
[リンクのない新着テキスト] カテゴリの最新記事
|
|