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侯爵夫人
東京市の政友会新侯補者|添田《そへだ》増男氏に対して、鳩山春子夫人が伜《せがれ》一郎氏のために躍起、運動を始めた。凡《すべ》て女の運動といふものは勝手口にも政治界にも利目《きゝめ》のあるもので、添田氏は手もなく頭を引込めた。お蔭で一郎氏の地盤は先づ保証される事になつた。 鳩山夫人のこの振舞を見て、甚《ひど》く癪《しやく》にさへたものが一人ある。それは当の相手の添田氏でも無ければ、添田氏の夫人でもない。この頃の寒さに早稲田の応接間で、口を歪めて縮《ちど》かまつてゐる大隈侯の夫人綾子|刀自《とじ》である。 侯爵夫人はもとから春子夫人のお喋舌《しやべり》とお凸額《でこ》とが気に入らなかつたが、鳩山和夫氏が旧友を捨てて政友会へ入つてから一層それが甚《ひど》くなつた。 侯爵夫人の考へでは、早稲田から神楽坂へかけて牛込一体は、自分の下着の蔭に、小さくなつてゐなければならぬ筈だのに、その中で春子夫人が羽を拡げて飛ぴ廻るのだから溜らない。 「添田など何だつてあんなに意気地が無いんだらう。鳩山の寡婦《ごけ》に口説き落されるなんて。」 と侯爵夫人がやきもきしてゐる矢先へ、ひよつくり顔を出したのは早稲田の図書館長は市島《いちじま》謙吉氏だつた。侯爵夫人は有るだけの愛矯を振り撒いて迎へた。そして市島氏が椅子に腰を下すなり、もう口説《くどき》にか\つた。 「市島さん、今度の選挙に牛込から出なすつたら如《いか》何。私及ぶ限りの御尽力は致しますよ。」 市島氏はその折古本の事ばかり考へてゐたので、侯爵夫人の言葉が何《なに》の事だか一寸呑み込めなかつた。だが、こんな時|間《ま》に合せの笑ひを持合せてゐたので、 「へへへへ……」と顔を歪めて笑ひ出した。そして 暫く経つてから漸《やつ》と返事をした。 「何だつて突如《だしぬけ》にそんな事を仰有るんです。」 侯爵夫人は側《そば》にゐる大隈侯の顔をちらりと見た。侯爵は鱈《たら》の乾物《ひもの》のやうな顔をして凝《じつ》と何か考へ込んでゐた。 「でも、私鳩山の寡婦《ごけ》が其辺《そこら》を走り廻つてるのを見ますとほんとに癪でね……」 「成程、御尤《ごもつとも》で……」と市島氏は型のやうに一寸頭を下げた。そしてその次ぎの瞬間には文求堂の店で見た古い唐本《たうほん》の値段の事を考へてゐた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年05月10日 21時23分15秒
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