岩村城女城主おつやの方の運命・旅その5 最終回
恵那市岩村町を含め東濃地方は栗と五平餅が有名です。くり粉餅という珍しいお餅もありますが、作ってから2時間以内に食べた方が良さそうです。最後にどうしても触れておきたいのが岩村城女城主のおつやの方のことです。(画像は岩村観光マップのリーフレットから拝借)(女城主と織田家家系図)おつやの方は織田信長の叔母にあたります。「文治元年(1185年)源頼朝の家臣加藤景廉が遠山荘の地頭となり長男景朝が岩村城を築きました。戦国時代末期、城主の遠山景任が病没、養子となった織田信長の五男御坊丸がまだ幼少であったため、その夫人おつやの方が実質的な城主として領地を治めていました。おつやの方は大変聡明で美しく領民に慕われていたそうです。元亀3年(1572年)武田信玄の24将の一人、秋山虎繁が侵攻してきました。おつやの方は自ら采配を振るい信長の支援を待って籠城作戦に出ました。しかしこの時、信長は長島の一揆などで前に進めずおつやの方の籠城作戦は3カ月にわたり城内の食料も不足してきた頃、虎繁からおつやの方を妻とすることを条件に無血開城を申し入れてきました。おつやの方は苦渋の末、城兵や領民の命を守るため敵将との結婚を決意し開城しました。その後の数年間、おつやの方は虎繁とともに城の普請や城下町の守備に勤め平和に暮らしていました。しかし、御坊丸は信玄の下へ人質に送られ岩村城が乗っ取られてしまったことを信長は黙っていませんでした。天正3年(1575年)長篠の戦で武田勝頼軍が敗戦したことで武田と織田の勢力が逆転、信長の嫡男信忠率いる織田軍が攻め入りました。この時も半年に及ぶ籠城で城を守りましたが、武田の援軍も望めず、信長からの条件を呑み開城。その条件とは領民を守り、おつやの方と虎繁の命を守るという約束でした。しかし、信長はこれを反古にし夫妻は磔(はりつけ)の刑に処されてしまいました。」(リーフレット概略)領民のためを思っての行動が運命に翻弄され儚く散ってしまった戦国の世の女城主・おつやの方、悲しいですね。さあここでガラッと話題を変えまして、行き帰りに立ち寄った喫茶店でのモーニング珈琲とアフタヌーン珈琲です。とてもくつろげる雰囲気の喫茶店で展示されている小物がほのぼのとしていて大好きなので写させてもらいました。これで岩村城址と「半分、青い」のドラマロケ地の旅日記を終わります。