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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

全108件 (108件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 11 >

スピノザ

2008.10.27
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カテゴリ:スピノザ


「悟りへの階梯」チベット仏教の原典『菩提道次第論』
ツォンカパ /ツルティム・ケサン 2005/06 UNIO /星雲社 単行本 415p
Vol.2 No.348 ★★★☆☆

 「菩提道次第論」は、チベット仏教を代表する尊者ツォンカパの主著であり、晩年の著作として師の最終的な考えです。また、それが基本的ににはインドから師資相承されてきた教えであると考えるなら、インド大乗仏教の最終的な考えですし、チベット仏教の諸宗派においてこの教えを受けておらず、根本としていない者はありません。邦題は、その題名をほぼ直訳した「悟りへの階梯」としました。あとがき414p

 ツォッカパの最終的な最高な境涯を示したばかりではなく、チベット密教、チベット仏教の最高峰、あるいはゴータマ・ブッダ以来の仏教の完全な完成形、というほどの持ち上げ方である。これだけの名著を、良く理解できないばかりか、これはちょっと違うんじゃないか、などと首をかしげている私のような者は、自らの愚鈍さを天下に示しているだけで、ひたすら恥ずかしいの一語に尽きる。

 とにかく、一回目を通しただけではよくわからず、また、今後だって、また読んでみようか、などと再チャレンジする意欲が湧いてくるかどうかさえ自信はない。しかし、松本史朗 「チベット仏教哲学」などに目を通してみると、それぞれ立場はあれど、必ずしもツォンカパ聖哲人は、完全無欠で、批判の余地はない、などというものでもなさそうだ。当ブログとしては、まったく無邪気な取り組みではあるが、まずはツォンカパについては、批判的に取り組もうと思う。つまり、教えを乞うという立場からではなかなか情熱は湧いてこないが、それを乗り越えていかなくてはならない、という意味で、ツォンカパをしっかり学んでおかなくてはならない、という立場からスタートしようと思う。

 「道次第大論」の典拠は、上記のとおりアティーシャこと、ディーパムカラ・シュリージュニャーナの「菩提道灯論」である。アティーシャの略伝は本論冒頭の記述からも知ることができるが、「道灯論」はわずか三頁ほどの小著である。「同論」は「道灯論難語釈」によると、尊師ボーディバドラの甘露のような口訣をアティーシャが承けていたのを、西チベット、ガリの王チャンチュプオと比丘ツルティム・ギャルワの二人がたびたび祈願したのにちなんで、師の口伝と経典などに基づいて著作された。 「序説」p9

 アティシャの「菩提道灯論」は、おなじツルティム・ケサン訳の「解脱の宝飾」のなかに添付されていたので、今後必要になるとすれば、短文なので、全文こちらに引用させてもらうことも可能であろう。いずれにせよ、おなじアティシャの解説でも、Oshoの「アティシャのハート瞑想」などと並べてながめてみる時、チベット密教(仏教)経典の哲学的研究者ならぬ、現代人としての一瞑想者でしかない読者としては、そのあまりの違いに亜然とする。

 ツォンカパによる一連の活動を、チベット仏教における「宗教改革」とよぶ人々もあるが、「宗教改革」とはいっても、日本の、いわゆる「鎌倉新仏教」と同一の次元でとらえることは的外れである。ツォンカパによる「宗教改革」はあくまで宗教のプロたる出家僧侶を対象にしたものであり、ともすれば堕落しがちであった彼らを、戒律をはじめ、ただしい仏教の道にみちびくための行動にほかならず、宗教のアマたる民衆にまで対象を広げたものではなかったからである。ツルティム・ケサン/正木晃「増補チベット密教」p061

 たしかにアマ・プロ論でいえば、カウンセラーやコンサルタントを自称し、時には瞑想指導などを行なって、その対価を得ている自分をアマと見るか、プロと見るかは微妙なところだが、戒律をまもったり、生涯を一つの道に徹することを、内外から監視される立場にない、という意味では、私は宗教の「プロ」ではない。さらにいうなら、「宗教」という「産業」(田中公明いうところの)にもかかわっている者でもない。思えば、このあたりのスタンスの違いが、当ブログがいまいちツォンカパに感情移入できない理由のひとつに関わっている可能性もある。

 p324ページの「菩提道次第の伝承図」は興味深い。「教主シャーキャムニ」から三派にわかれた系統図は、約1400年経過ののち「主尊アティーシャ(982--1054)」において統合され、一人おいて、さらに「カダム・ラムリム派」、「カダム・シュンパ派」、「カダム・タクガク派」の三つの系統に別れたとされている。

 この三派が、それぞれおおよそ10代の師弟を経て、また再統合されたのが「尊者ツォンカパ・ロサンタクパ」においてであり、その後、さらに約20代の師弟関係を挟んで、現在のダライ・ラマ14世につながっている、とされている。実に実に長い長い系譜である。

 まったくの余談となるが、本書のなかで、それぞれのテキストがナンバリングされており、「1」からはじまり、「4-2-2-2-3-3-3-2」まで続いている。この一覧表だけで、実に17ページが費やされている。

 途中においては、「1-3-3-0-b-2」とか、「2-4」とか、「3-1-3-2-5」とか表記されているのだが、だんだん長くなると「4-2-2-2-1-1-2-2-1-2-2-3-2」などという表記が多くなる。最長のものとなると「4-2-2-2-3-3-3-1-3-3-2-6-1-2-2-1-3-1-1-2」なとどいう文字列の列挙ということになる。

 本書の趣旨とは全く違うが、私はこれらの文字列をながめていて、一種の光酩酊のような不思議な感覚を味わった。これらの単純の文字列の連続のなかに、なにごとかの幻覚作用があるのではないだろうか。私は実は、ある文字列について不思議な印象を持っているのだが、そのことをまざまざと思い出したのである。私にとっての特殊な意味合いを持つその文字列はこの17ページの中にはなかったが、なにやら、このような形で、ヒミツを説いていく鍵がみつかるかも知れない、というインスピレーションを受けたことをメモしておく。

 さて、この書き込みにおいて、当グログにおける17番目のカテゴリ「スピノザ」が満願の108に達することになる。思えば、その経緯は右往左往の連続ではあったが、スピノザの「エティカ抄」から始まって、このツォンカパの「悟りへ階梯」へと至る道も、ユーモアに富んでいて、まんざら意義なしともしない。

 いままで、この「スピノザ」「環境心理学」カテゴリに入れてきた書き込みは、今後「インテグラル」カテゴリにほおり込んでいくことになる。いよいよ「OSHO@Earth.Spirit 0.3 」「インテグラル」「アバター多火手」の三つ巴が始まる。この三者が同時に108に達し、最後の「21th カテゴリ」になだれ込んで、「観音のマントラ」も108に達し、現在17万のアクセス数が21万に達しようとする頃、幻身たる7つの身体もホロ見えて、当ブログにとっての究極、大団円への運びとなることだろう。







Last updated  2009.02.20 01:54:17
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2008.10.26
カテゴリ:スピノザ

「ツォンカパ チベットの密教ヨーガ」
『深い道であるナーローの六法の点から導く次第、三信具足』
ツルティム・ケサン、山田 哲也訳1999/11 文栄堂書店 単行本 252p
Vol.2 No.347 ★★★☆☆

 

チベットの密教ヨーガ.jpg

 

 ツォンカパ関連の本も探してみればいろいろある。図書館によってはかなり揃えているところもある。宗喀巴大師と書いているものもあって、これもツォンカパだ。それらを研究資料的書物を当ブログで読み進めることはできないが、その存在を確認することは一定の意義を感じてはいる。

 さて、この「チベットの密教ヨーガ」というタイトルの本は、ツォンカパ著とはなっているが、素材は、ナーローの六法だ。つまり、インドのナロパが、チベットからやってきたマルパへ伝えたとする奥伝だ。そのマルパのもとで、かのチベットの詩聖ミラレパは大悟した。さらにはミラレパの弟子であるガンポパにも伝わったはずだし、その流れからツォンカパもこの法を伝授されたはずだ。

 このナーローの六法については、各書であちこち散見されるが、いまいちまとまったイメージとしてはまだ理解していない。

 「ナーローの六法」の数え方は、(1)チャンダリーの火と(2)幻身と(3)光明と(4)遷移(ポワ)と(5)入街(トンジュク)と(6)中有という六つの口訣を数えるのである。 p97

 この言葉だけで言えば、ひとつひとつイメージできないわけではない。(1)のチャンダリーの火とは、瞑想中に感じる得る内なるキウンダリーニに類するものだろう。(2)の幻身とは、(1)に伴なって感知しうる微細な身体のことで、こまかく分類はできるが、まずは、すくなくともこの生物的物理的物質としての体のことではない。

 (3)においては、さらに慎重に取り扱わなければならないが、瞑想者が体感し得る、ある種のピーク体験のことだ。光明とは表現されてはいるが、かならずしもまばゆく輝く光ということではなく、かぎりなく透明な融通無礙な境涯のことであろう。

 (4)遷移は、さらに人生最大のできごとされる生死を超える次元についての取組みのことであり、(5)入街、(6)中有などに至っては、一連の「チベットの死者の書」などでも扱われている、深い深い存在で感得しうる玄妙な世界についてのとらえ方のことであろう。

 本書は、左のページにチベット語が書かれ、右のページには対訳としての日本語が書かれている。ネットで検索してもこの本についての情報は多くない。つまり、一般向けににだされた本でもないし、一般人がいきなり読んでもその本質をすぐに理解できるような本ではない。しかし、関連の中で紐とかれるなら、その資料性や重要性において、貴重な存在であるに違いない。

 読んでみて決して読みにくい本ではないし、テーマがカギュー派に関連のある話なので、当ブログとしては、他のツォンカパ本に比較するれば、かなり取組みやすい本、というイメージを持った。再読するチャンスがあることを期待する。

<2>につづく







Last updated  2008.11.13 20:49:07
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2008.10.25
カテゴリ:スピノザ

<1>より続く

「聖ツォンカパ伝」 <2>
石浜裕美子 /福田洋一 2008/02 大東出版社 単行本 299p

 ようやく自分の借り出しの番が来たので、自宅でゆっくりくつろぎ、寝っ転がって読んでは見たけど、やっぱり自分の波長にいまいちツォンカパを合わせることはできないようだ。チベット仏典からの直訳だけに、研究対象としての学術的価値は高いのだろうが、なにか自分のスピリチュアリティ成長のきっかけになってくれるのではないか、という期待感に、簡単には答えてくれはしない。

 ただあちこちで何回もツォンカパの人生ストーリーを読みかじっているうちに、大体のその六十数年の伝記は呑み込めるようになった。このようなチベット仏教界最高峰と言われ学僧の存在があったのだ、ということは理解した。

 ツォンカパはどちらかというと、長男体質。責任感がつよくて、みんなのことを考えて、着実にものごとを進める。でも、私は、もっとやんちゃで破滅型の次三男体質のほうがすきだったりする。その辺が、波長を合わせるのに時間がかかっている理由かもしれない。

 ところで、本日は、わが事務所に差し込んできた虹があったので、その光を水晶に当てた。ちょっとピンぼけだけど、画像を張り付けておく。

 

水晶と虹.jpg

 







Last updated  2008.10.26 01:14:32
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カテゴリ:スピノザ


「マンダラとは何か」 <1>
正木晃 2007/08 日本放送出版協会 全集・双書 283p
Vol.2 No.345 ★★★★★

 「マンダラをさらに深く知るために」読書リストのトップにある限り、まずはこの本を読まなくてはならないだろう。ましてや、同じ著者によるインテークである。ただ、「増補チベット密教」の増補部分と書かれた時期が重なるので、内容的にはかなりの部分、繰り返しになっている。

 先日、なんの脈絡もなく「マンダラ事典」なる本を読んで、すこしイラついた自分を思い出した。マンダラはマンダラとして、独立した美術品的な存在とか、突出した文化現象としてみてしまうことには、私はやや批判的だ。マンダラは、方法論であり道具だ。なんとかとハサミは使いよう、とは言うけれど、マンダラも使われ方によっては、方向性が全く違ってしまう。そのような意味では、マンダラをどのように使ったらよいか、いまだにつかみかねている自分にイラだっていた、ということになろう。

 たとえばOshoにおける「マンダラ瞑想」において、外的な幾何学的な美術品であるいわゆるマンダラ画像などは使われていない。この辺の理解を進めていかないと、マンダラという「美術品」に引きずり回されて、いたずらに徒労感をもつだけに終始してしまう可能性もあるのではないか、と危惧する。

 マンダラ成立史の第一人者とされる田中公明氏は、マンダラをこう定義する。
 仏教で信仰される尊格(仏神)を、一定の幾何学的パターンに配置することで、仏教の世界観をあらわしたもの
 さすがに第一人者だけあって、この定義は簡潔で、とてもわかりやすい。しかも、よく的を射ている。私も、狭義のマンダラに関する限り、もっとも基本的な定義としては、これを採用した。
 いっぽう、マンダラがもつ機能に強い関心を寄せる仏教学者である立川武蔵氏は、1500年にもおよぶ歴史を考えると、そう簡単に定義はできないと断ったうえで、マンダラの本質にまつわる要件を三つあげている。
1)仏菩薩や神々、もしくはそのシンボルが配置されていること
2)仏菩薩や神々が住む場所があること
3)そういうマンダラを見ている人間がいること  
  p18

 現在の日本におけるチベット密教研究の中において、田中公明、立川武蔵、正木晃、という三者を抜きにしては、何事もすすまないので、この三者による、おおまかな「合意」は、ひとつの大きな定義であると考えてもいいだろう。

 しかし、私は研究者でもなければ、学者でもない。あるいは密教者でもなければ、狭義でいうところの仏教者でもない。私がチベット密教やマンダラに近づくにおいて、自らの立場をいまいちど確認していかないことには、いたづらにこれらに近づくことだけでもリスクをともなうものであるし、無意味でもあるだろう。

 とくに立川言うところの「3)そういうマンダラを見ている」「人」が問われなくてはならない。当ブログにおいては、これ以上読み進めるには、まずは、マンダラを単独なものとしてみることはできない。マンダラは、密教、とくにチベット密教へのアプローチとして学ばれなくてはならない。そして、その中において、大日如来とアバター多火手のシンパシーの進行度によっては、最適な距離間がつねに維持されなくてならないだろう。

 私のマンダラ研究は、たぶんに現代の精神医学とかかわっている。このあたりが従来型のマンダラ研究者からすると、邪道といわれかねない点かもしれない。
 しかし、「マンダラは現代社会に寄与できるか?」という問いのみならず、「マンダラとは何か?」という問いもまた、現代の精神医学とはまったく無縁では成り立たないという確信が、私の胸中をにある。マンダラを、あえて「教義のマンダラ」と「広義のマンダラ」に分け、その両者に関心のまなざしを注いできた理由も、同じ理由による。
p250

 マンダラ・パターンと精神医学ということでいえば、私はまず浅利篤の自由想画法のなかの 「のどの構図(頸喉投影)」を思い出す。現在は色彩心理学者と称している末永蒼生氏などのリードで、この色彩心理診断法を学んだことがある。詳細はさけるが、つまり、子供たちが自由に描く絵のなかにはたくさんの秘密が隠されていて、その基本は、体と顔と喉のパターンの三つに分かれているというのである。

 とくにこの喉のパターンは、喉の輪切りがもとになっているのではないかということであった。体と顔をつなぐ喉、マントラを唱えるときに、頭から体に伝える神経系のすべてが詰まっている喉。その喉がヴァイブレートすると、体全体に効果が現れるという。この喉のパターンがマンダラ・パターンと呼ばれていたのは、とても興味深いものであった。

 当ブログにおいては、正木言うところの「教義」のマンダラを追いつつ、本当に関心があるのは、当然「広義」のマンダラだ。そして、そのマンダラも、マンダラという文化領域を離れて、もっと神聖幾何学のようなもにつながっていくのではないか、という予感と期待観をつよくもっている。

 たとえば、当ブログが2007年度に読んだ約1000冊の読書ワールドを「地球人スピリット・ジャーナル曼荼羅2007」と表現しておいたが、その中心に座している一冊は、「 フラワー・オブ・ライフ」である。実は、この古代神聖幾何学へのスライドを虎視眈々と狙っているのである。

 正木は「マンダラ塗り絵」というものを開発している。色や形にもそれぞれの意味を付与している。上記の浅利式色彩診断法などと対比したら、これは結構おもしろいことになるかも知れない。

<2>につづく







Last updated  2009.01.30 22:01:45
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2008.10.23
カテゴリ:スピノザ


「純粋仏教」セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える
黒崎宏 2005/11 春秋社 単行本 209p
Vol.2 No.344 ★★★★☆

 著者黒崎宏には、「ウィトゲンシュタインから道元へ」 2003/03 、 「ウィトゲンシュタインから龍樹へ」2004/08、「理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から」 2007/02、などの近著があり、その他、約10冊ほどある著書のすべては、ウィトゲンシュタインがらみの考察である。1928年生まれの哲学者の視点はますます冴えている。

 もしも、ソクラテスが死んだ、とすれば、ソクラテスが死んだのは、ソクラテスが生きているときであったのか、あるいは、ソクラテスが死んだときであったのか、のいずれかである。そして、ソクラテスは、生きているときには、死ななかった。----さもないとソクラテスは、生きてもいるし死んでもいる、ということになったであろうから。しかしソクラテスは、死んだときにも死ななかった。---さもないとソクラテスは、二度死んだことになるであろうから。したがって、ソクラテスは死ななかった。p120

 セクストス・エンペイリコスとは、紀元前2~3紀にアレクサンドリア、ローマ、アテネなどで活躍した医学者、哲学者。彼の哲学的著作は、古代ギリシャ・古代ローマの懐疑論として知られる。黒崎はウィトゲンシュタイン研究者として、この人物と同じ時代に東洋で活動していたナーガルジュナとの共通点について検討する。 

 ブッダは、いかなる「教え」も説かなかったのである。それでは、ここで言うところの「教え」とは何か。文脈から見れば、それは戯論(形而上学的議論)であろう。それではそれは、例えば、どういうものか。それは、以下のようなものであろう。

   過去世(生まれる前の世界)は存在するか。
   来世(死後の世界)は存在するのか。
   世界は(空間的に)有限なものか。
   世界は常住(時間的に無現)なものか。
   何と何(例えば、一瞬前の我と今の我)は同一か。

 ブッダは、これらの問題については、何も答えなかったのである。何も語らなかったのである。このことを「無記」という。ブッダは、形而上学的真理を説くことによって、人びとを救おうとしたのではないのである。ブッダは、決して哲学者ではなく、あくまでも宗教者---救済者、しかも実践的な救済者---であったのだ。p156

 著者の特異な一連の書物は、当ブログとしては、これから読み始めるところであり、この書から入ったのがよかったのか、悪かったのかは、いまのところは判別つかない。ただ、感じたことは、難しそうに思えたわりには、きわめて簡潔で透明感の高い本であった、ということ。次の本にも期待する。

 結局、純粋仏教には二つの側面があるのである。一つは、「縁起の世界観」であり、もう一つは、「一重の原理」である。そしてそのいずれにも、神秘的なことはもちろんのこと、超越的なことも仮説的なことも一切存在しない。それらは、現実の日常生活の世界の真実の姿についての、徹底した自覚に外ならない。したがってわれわれが、超越的なことも神秘的なことも仮説的なことも一切排除して、確かな世界に生きようとするならば、われわれに可能なことはただ一つ、「純粋仏教」を生きる、ということしか有り得ないのではないか。しかしそれは、実は、もはやいわゆる「仏教」ではなく、「宗教」ですらないであろう。そこには、神も仏も、天国も地獄も、そしてまた霊魂さえも、ないのである。それでは救われない、というのならば、それはそれで仕方がない。
 これをもって私の「結語」とする。
   p192







Last updated  2008.11.22 21:21:45
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2008.10.22
カテゴリ:スピノザ


「ダライ・ラマ  ゾクチェン入門 新装版」 <1>
ダライ・ラマ /宮坂宥洪 2008/08 春秋社 単行本 331p、
初版2003/05
Vol.2 No.340 ★★★☆☆

 そもそもなんでもかんでもダライ・ラマに語らせようということ自体、すこし無理があると思うのだが、ナムカイ・ノルブの「ゾクチェンの教え」がとても面白かったので、それをすこし期待したのが悪かった。いつものダライ・ラマ節で、どこからが「ゾクチェン」なのか、立ち読み風情には、いまいちよくわからなかった。

 この本、もともとは2003/05に出た初版本の改訂版。どこがどう改定されたのかわからないが、それなりに人気のある本なのだろう。

 当ブログにおいては、いまだにゾクチェンとマハムドラーの両境地についての比較を終了していない。つまりは、ゾクチェンとはポン教的マハムドラーであり、マハムドラーとは、インド的ゾクチェン、という程度の理解に押さえている。

 だがしかし、わが理解のティロパ「マハムドラーの詩」や、「マハムドラー瞑想」と、この本から受ける印象は、かなり雰囲気が違う。まぁ、いずれが、どうなのか、次第にわかってくるかも知れない。

 

<2>につづく







Last updated  2008.12.22 23:45:45
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カテゴリ:スピノザ


「ツォンカパの中観思想」 <1>ことばによることばの否定
四津谷孝道 2006/11 大蔵出版 単行本 389p
Vol.2 No.339 ★★★☆☆

 この本、税込で 9,975円な~り。すごく高い本。自分で買って読むとは思われないが、いつかはゆっくり目を通してみたいもの。「ことばによることばの否定」。どことなくウィトゲンシュタインを思い出した。もっとも「中観思想」だけに、もろにつながっていてもおかしくはない。

 いままでこのような本があることにまったく頓着しなかったが、これからはこのような本をすこし目を通してみようかな、と思う。ナーガルジュナなんかもひととおり分かっておかないと、チベット密教もなかなかわかりにくい。でも、図書館もなかなかこのような高価な本は入れてくれない。

 そういえば「ツォンカパ中観哲学の研究」なんて本もあったな。ないものねだりをせずに、なにはともあれ入手可能なところから始めなくてはならない。

<2>につづく







Last updated  2009.05.19 09:46:40
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2008.10.21
カテゴリ:スピノザ

<4>よりつづく

「増補 チベット密教」 <5>
ツルティム・ケサン /正木晃  2008/05 筑摩書房 

 <初読>時に受けたインパクトは、こちらの「増補版」を<再読>した段階でも弱まらないばかりか、ますますヴァージョンアップしてきた感がある。姉妹誌とも言える「裸形のチベット」を読み、さらに「チベット<歴史>深読みリスト」を網羅した段階で、さらに緻密さを増してきたというべきだ。

 だが、「マンダラをさらに深く知るために」リストをアップした段階で、さて、またこの迷宮にふたたび足を踏み入れていくべきなのか、そろそろこの辺で目先を変えて、別なジャンルに挑戦すべきタイミングか、と、悩んでしまう。

 そこでこの「増補チベット密教」を、またざっと眼を通してみた。初読時、再読時に比べ、はるかに理解力が深まっていることに驚く。たくさんの支線を理解するとともに、予備知識の整理、そして、チベット語を中心とした専門用語にも少しは慣れてきた、というべきだろうか。

 そして、どちらかというと敬遠気味だったツォンカパも、必ずしも最初からゲルク派だったわけではなく(彼が祖となるのだから、あたり前だが)、もともとは3歳の時にカルマ・カギュー派の優婆塞戒(うばそくかい)を受け、17歳の時には、カギュー派のディグン寺で「マハームドラー」などを教えられた(p071)というのだから、これはツォンカパを毛嫌していては、なにか大事なことを見逃してしまう可能性があることに気がついた。

 そもそもここからは、チベット密教の中でも奥の院に属するところなので、いたづらに足を踏み入れるべきではないのだが、自分自身の「求道心」を確かめながら、注意深く進んでいくことにしよう。だめならだめで、無理をしないで、途中で引きかえることにする。

 さて、この本を再々読してみて思うことは、ふたつ。一つには、インドとチベット密教が生み出した最高度の成就法と称賛される「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第 」がいよいよ大事になってくるのであり、そのダイジェストと目される「チベットの『死の修行』」を読みこなす力がますます必要になってくると、いうこと。

 そして、二つ目は、一説に、チベット密教最大の経典とされる「時輪(カーラチャクラ)タントラ」に、なんとツォンカパは、その師レンダワの説にしたがって、あまり重きを置かなかったということだ。当ブログにおいては、この経典は「ダライ・ラマの密教入門 」を読み解いていくところから始まることになる。

 上記二冊の本を読み進めるのは、なかなか困難だ。私のようなトンチンカンな闖入者にとっては、まるでザルで水を汲んでいるような、なんともむなしい作業が続く。それと、やはり「大秘密四タントラ概論」 (ガワン・パルデン他)についての足がかりがまだ得られていないことは、大いに気になるところだが、それはまだまだ先における問題だ。

<6>につづく







Last updated  2008.11.02 21:31:05
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2008.10.19
カテゴリ:スピノザ

<3>よりつづく

「増補 チベット密教」 <4>
ツルティム・ケサン /正木晃  2008/05 筑摩書房 

 なにはともあれ、次へのステップのためにリストを作っておく。

 

「マンダラをさらに深く知るために」 p251~254

「マンダラとは何か」 正木晃 2007.08  NHK出版

「マンダラ---心と身体」 立川武蔵 財団法人千里文化財団

「マンダラの世界」 松長有慶+杉浦講平 1983.07 講談社

「曼荼羅イコノロジー」 田中公明 1987.08 平河出版

「図説 曼荼羅大全---チベット仏教の神秘」 マルティン・ブラウエン 2002.09東洋書林

「チベット・曼荼羅の世界」 東北大学西蔵学術登山隊人文班 1989.03 小学館 

「チベット仏教図像研究---ペンコルチューデ仏塔」 立川武蔵・正木晃編 1997.03  国立民族学博物館

「チベット密教の神秘」 立川武蔵・正木晃  1997.03  学習研究社

「インド・チベット曼荼羅の研究」 田中公明  1996.08  法蔵館

「タンカの世界---チベット仏教美術入門」 田中公明 2001.03  山川出版

「チベット 生と死の文化 曼荼羅の精神世界」 フジタヴァンテ編 1994.01  東京美術

「天空の秘宝 チベット密教美術展」 監修・リー+サーマン 1997.02  東武美術館 

「密教仏像図典」 頼冨本宏+下泉全暁 1994.11  人文書院

「インド密教の仏たち」 森雅秀 2001.02  春秋社 

「仏のイメージを読む---マンダラと浄土の仏たち」 2006.08  大法輪閣

「曼荼羅と輪廻 その思想と美術」 立川武蔵編 1993.12  佼成出版社

「マンダラ宇宙論」  立川武蔵・編 1996.09  法蔵館

「マンダラの理論と実践」 ジョゼッペ・トゥッチ 1984.11  金花舎

「マンダラの密教儀礼」 森雅秀 1997.12  春秋社

「生と死からはじめるマンダラ入門」 森雅秀 2007.07  法蔵館

「マンダラという世界」 立川武蔵 2006.04  講談社

 

 全21冊のうち、15冊までは読めるようだ。残りは、今後探索してみよう。

<5>につづく







Last updated  2008.11.16 13:45:46
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カテゴリ:スピノザ

 <1>よりつづく

ゲルク派版 「チベット死者の書」 <2>
平岡宏一 1994/12 学習研究社 全集・双書 236p

 「チベットの死者の書」と言われるものもさまざまなヴァージョンがある。まずは1973年に出たおおえまさのり訳。

 第一日目
 
「オー けだかく生まれたものよ。
 汝はこの三日半気絶していた。汝がこの気絶から回復するや、汝は「何が起こったのか!」という考えを抱くだろう。汝はバルドを認識するようにせよ。その時、現象は全く違って経験されるだろう。そこで汝が見る現象の現われ方は発光と神々である。
 全天は深みもあるブルーに見えるだろう。「あらゆる現象の種子を前方へと撒き散らす中国国土」から、色は白で、ライオンの王座に座り、かれの手に八つの輻(や)をつけた輪を持ち、「天空の母」に抱きしめられた「バガヴァーン・ヴァイローチャナ」が汝の前に現れるだろう。
 それはブルーの光である原初の状態へと帰着してゆく現象の集成である。
 色はブルーで、輝き、透明で、華々しく、眩しく、「父母・ヴァイローチャナ」の心からやって来るダルマ・ダーツゥの知恵が前方に放射されて汝を刺し通すだろう。それは非常に眩しいので、汝はほとんどそれを見つめることが出来ないだろう。
 その光と一緒に、汝を刺し通すデーヴァからの鈍い白光が輝いているだろう。
「チベットの死者の書」おおえまさのり訳1973/10千部限定版p17

 最近では、 「改訂版」2004/03もでているので、もっと違った訳になっているかもしれない。いずれ英語版からの重訳となると思われるが、チベット語の原典から直訳されると次のようになる。

 一日目
 「ああ、善い人よ、三日半の間、汝は失神していたのである。失神から目覚めると、自分には何が起こっているのだろうかという想いが生ずるであろう。汝はバルドゥの状態にあるのだと覚るべきである。その時に輪廻の反転から、ありとあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現れるであろう。虚空すべてが紺青色の光となって現れてくるだろう。
 この時に、中央の<ティクレェダルワ(精滴弘播)>という名の仏の世界(法界)から、尊い御方(世尊)であるヴァイローチャナ(毘盧遮那)如来が白色の身体をして獅子の背に坐し、手に八輻の輪をかざして、女尊アーカーシャダートゥヴィーシュヴァリー(虚空界自在母)と接吻した姿で汝自身の方へ向かって現れてくるだろう。
 意識の集まり(識蘊(しきうん))からできている、根底から清浄であって紺青色をした仏の世界の叡智であるもの、明瞭で光沢のあるもの、幻惑させるように輝くものが、ヴァイローチャナ如来男女両尊の心臓から出て汝の面前に近づいてくる。これは眼が痛くてとても直視できないほど強烈な光である。と同時にこのヴァイローチャナ如来の強烈な光に伴って、もろもろの天界の存在(諸天)に属する、幻惑させることのないほどに微弱な白色の薄明りも汝の目の前に近づいてくるであろう。
「原典訳 チベットの死者の書」川崎信定訳1989/05 p29

 チベット語から直接翻訳されているだけにより説明が詳しいが、名称とか文章の格調はともかくとして、内容の構成はそれほどかわるものではない。

 ロバート・サーマンは1941年生まれのアメリカ人だが、64年にインドに渡り、ダライラマの側近(ゲルク派)のもとでチベット密教を学んだラマ僧(のちに還俗)だが、彼の訳になると次のようになる。

 一日目(中略)
 キェー、善い人よ! あなたは四日と半日、失神していたが、先に進む時がやってきた。目覚めたときは「いったい何が起こったのだろう」と不安に思うかもしれない。自分がバルドにいることを理解しなさい。輪廻の中を漂う今、あらゆるものが光や神々として立ち現れてくる。あたりには青い光が満ちあふれている。すると、中央の仏の世界から、あまねく広がる心滴が立ち現れ、手には八輻の法輪をもち、獅子の台座の上で配偶尊であるアカシャ・ダトヴィシュヴァリと抱き合った姿の白い身体の主尊ヴァイローチャナ(大日如来)となる。自ら浄化された意識の集合体(識蘊(しきうん))である、リアリティを完成した智慧(法界体性智)の青い光、純粋で生き生きとした青い光がヴァイローチャナ男女両尊の心臓からほとばしり出るが、その光は、恐怖心を抱かせるほどにまばゆく、目をくらませる。この瞬間、神々が住む展開のやわらかな白い光が輝き、あなたはこの光と智慧の青い光によって満たされるだろう。
「現代人のための『チベット死者の書』」ロバート・A・F・サーマン訳2007/05 p222

 こまかいディティールにそれぞれの違いがあるが、もともとの土台となる部分についての基本は大きく異なっているわけではない。眼を閉じて瞑想に入れば、時に青い光や白い光を見ることはしばしばありうるし、その中に何らかの姿を持った人格神をイメージすることは、そんなに難しいことではない。 

 

バルド・ソドル.jpg

 

 これらの三冊は、もともと「バルド・ソドル」(「バルドゥ トェ ドル」、「バルド・トゥドル」、「バルド・トドウル」とも)と言われるチベット密教の原典に基づいている。ところが、「ゲルク派版 チベット死者の書」は同じタイトルではあっても、もともとは「クスムナムシャ」というまったく別の経典が元となっている。

 だから比較しようと思っても、対応するページを並べるというような検討は不可能である。チベット人たちにとっては、「バルド・ソドル」は、それほどメインの経典ではないし、もともと「バルド・ソドル」が、突出して西欧人に愛読されていることに納得できない。むしろ、自分たちが普段からなじんでいる「クスムナムシャ」をチベット密教の代表的な経典として、置き換えたい。そのような思いの中から、紹介され始まったのがこの「ゲルク派版 チベット死者の書」である。

 ゲルク派版「死者の書」の正式な名称は「基本の三身の構造をよく明らかにする燈明」という。
 (中略)いわゆる、14世紀チベットのテルトン(埋蔵経典伝承者)、カルマ・リンバによって著され、アメリカの人類学者、エバンツ・ヴェンツによって世界中に紹介されることになった、ニンマ派の「死者の書(バルド・トドゥル」)」とは、その成立とともに、目的にも若干の違いがある。
p38

 ゲルク派の人々にとって、「バルド・ソドル」の何が不足しているのだろうか。

 この世界ができたばかりの、初劫(しょごう)の閻浮提(えんぶだい)の人たちは、以下のような特徴をもっていた。
 母体・卵・水などのよりどころをもたず、忽然と生まれる化生であること。
 無量の寿命に耐えうること。
 全員、一切の根(こん)がそろっていること。
 身体が、自然に放出される光により満たされていること。
 仏の素晴らしいお姿である相好(そうごう)と相等しい、荘厳なるもので飾られていること。
 段食(だんじき)によらず、心の喜びを食物として食する者であること。
 神通力により虚空を行きうること。
以上の七法をともなう者ばかりであった。
p14

 「バルド・ソドル」と「クスムナムシャ」を読み比べるというのは、当ブログの力量にあまるし、もともと、そのようなかたちで比較することにどのような功徳(笑)があるのか、まったくわからない。だが、一度はやってみたい、という欲望が湧いてくるのも事実。ここでは、そのような違いがある、ということを確認しておくことにとどめる。

<3>につづく







Last updated  2008.11.01 10:08:21
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