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2012年05月30日
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カテゴリ:政治問題
 戦後米軍に占領されたままだった沖縄の復帰を求める歌「沖縄を返せ」と、今もラジオで、ニュースを琉球語で伝えるキャスターについて、15日の東京新聞は次のように報道している;


 40年前、沖縄の復帰を求めて全国の人が合唱した「沖縄を返せ」。石垣島出身の琉球民謡歌手は、今でも歌い続けている。そして、地元ラジオ局の女性キャスターは、沖縄言葉(ウチナーグチ)でニュースを伝える。「沖縄の歌と言葉を忘れてはならない」。2人は、米軍基地がなくなり、真の復帰を果たすことを願う。(小坂井文彦)

 ♪ 我等(われら)は叫ぶ沖縄よ
   我等のものだ沖縄は
   沖縄を返せ

 1956年、福岡県で生まれた歌だ。裁判所関係者の労働組合「全司法福岡高裁支部」の作詞。三井三池炭鉱で働き、多くの労働歌を作った故荒木栄さんが曲を付けた。福岡や東京で歌われ、沖縄でも歌われるようになった。

 「沖縄の人は自分たちで、復帰を求める行動を起こせなかったのです。宿命というか、現状が当たり前というか」。琉球民謡歌手大工(だいく)哲弘さん(六乙は当時の複雑な心境を説明する。「『本土が嫌うものを背負って、我慢するさー』と。それは、沖縄のやさしさでもあるのだけど」。前沖縄防衛局長が口を滑らせたように、「沖縄は明治時代から本土に犯され続けてきた」とも思う。

 沖縄の祖国復帰運動が起きた当時は高校生。毎週末、沖縄各地で復帰を求める集会が開かれ、子どもから大人まで、この歌を声がかれるまで歌い続けたことを覚えている。

 運動のシンボル的な存在だったが、72年5月15日に復帰を果たすと、役目を終えたように誰も歌わなくなった。

 それから20年近くたった90年、那覇市で開かれた戦後45年の平和式典で、大工さんは懐かしさを込めて「沖縄を返せ」を歌った。

 合唱する年配者をよそに、若者は口をつぐんだ。「何の歌ですか」。歌どころか、祖国復帰運動すら知らない若い世代が増えた。「教えない大人がいけない」。大工さんは決意した。「歌い続けよう」と。「大人には、沖縄の現状を伝え、日本政府の責任を問いただしていくことが求められている」

 95年9月に米兵による少女暴行事件がきっかけで、全国で反基地運動が起きる。大工さんは各地に呼ばれ、「沖縄を返せ」を歌った。

 このころ、「沖縄を返せ」と二度繰り返す歌詞を、「沖縄を返せ、沖縄へ返せ」に変えた。

 確かに40年前に沖縄は日本に復帰した。しかし、今でも在日米軍基地・施設の74%が沖縄に集中している現状は変わらない。騒音被害や米兵による事件、事故もある。沖縄は本当に返ってきたのか。「ずっと、誰に返すのかと思っていた。一字を変えてすっきりした。沖縄は沖縄の人のものなのだから

 勇ましい行進曲のようなメロディーもゆっくりとした沖縄の楽器「三線(さんしん)」に合う曲調に変えた。「沖縄のしぶとさ、したたかさを表した。こぶしを握って力を込めてというのは悲愴(ひそう)感があって現代向きではない。穏やかだけど、力強いジョン・レノンのイマジンのような存在になるのが理想です」

 全国で歌い続けるうち、「沖縄民謡を教えて」と声をかけられるようになった。復帰前の70年、テレビのオーディション番組に出演したとき、審査員から、「沖縄民謡は言葉の意味がわからないからメジャーにはなれない」と取り合ってもらえなかった。それぐらい差別や抑圧があった。

 大工さんが三線を教える教室は増え続け、今では沖縄以外に、東京や大阪、北海道、広島、福岡など16教室もある。

 「島唄ポップスが流行した影響が大きい。沖縄の曲は、自分の古里を思い出すような気にさせるそうです。沖縄は経済的に貧しかった分、文化が豊かなのです」

 大工さんは「40年たって、沖縄文化はだいぶ市民権を得たと思う。だから、もっと言葉を大切にするべきだ」とも説く。「ユネスコにも琉球語は言語と認められた。言葉ができなければ、民謡の心を込めて歌えない」

 大工さんは石垣島の出身で、八重山と那覇の言葉を話せるが、現在、沖縄でも沖縄の言葉「ウチナーグチ」を話せる人は減る一方だ。琉球大学の調査では、話せる学生は一割足らずという統計もある。

 「グスーヨー、チューウガナビラ(みなさん、こんにちは)」。ラジオ沖縄で30年前からウチナーグチで5分間のニュースを伝えるキャスター伊狩典子(いかりふみこ)さん(83)も「言葉は自分たちの存在そのもの。守らないといけません」と訴える。

 戦前、学校では皇民化教育として標準語を強要された。「標準語は日本語と呼ばれ、日本語を話せるのが優等生で、ウチナーグチしか話せないのは劣等生だった」

 伊狩さんの実家は首里城の近くにあり、父は琉球王国の誇りから、家庭では標準語を使わせなかった。「当時は嫌で嫌でね。だって、劣等生になっちゃうから」。沖縄に生まれたのが悔しく、小学校で懸命に標準語を覚えた。

 転機は40をすぎてから。73年、那覇市婦人連合会総務部長として政府の婦人指導者海外研修に参加してメキシコを訪れた。スペインの植民地だった国の若者が民族音楽を歌い、踊るのを見て涙した。「ああ、私はウチナンチュ(沖縄人)だ。堂々とそう言えばいい」

 伊狩さんと同居する孫たちはウチナーグチを話せず、十分な聞き取りもできない。「私たち大人が生活に追われて、言葉を教えてこなかったせい。20年ぐらい前は、まだ周りに話せる人がたくさんいたので気にもとめていなかった」

 80歳をすぎたが、「役目を終えてない」と思える。「父が教えてくれたウチナーグチを伝えることが私の使命です」

 「自分たちの言葉に対する沖縄の人の考えは変わった。ナイチヤー(内地の人)に認められ、自分たちの文化の良さに気付けた」と大工さんは言う。「ボクシングの具志堅用高さんが勝者インタビューでなまって話すのを見て、当時の沖縄の人は恥ずかしいと思った。今は沖縄出身の芸能人も堂々としている。40年で大きく変わった」

 最近では、大工さんはライブで「沖縄を返せ」を歌った後には、詞だけを変えた新曲「沖縄かがやけ」を続けて歌う。

 ♪ 平和を伝える沖縄は
   心癒やせ沖縄に
   夢よ遊べ沖縄に
   沖縄かがやけ

 「沖縄の農村では夏の豊年祭で、『予祝(よしゅく)』と言って歌います。将来に実現する願い事を、あらかじめ祝うのです。真の復帰が達成されないのは、歌う人が減ったからだと思う。みんなで歌い続ければ必ず本当の沖縄を取り戻せます」

<デスクメモ>

 琉球新報などが全国と県内で行った世論調査。米軍基地集中について、県内は69%が「不平等だと思う」と答えたが、全国では33%でしかなかった。意識の差は激しい。本土の人間は沖縄の痛みを感じてはいない。たとえ基地問題が解決しても、差別意識がなくならない限り、本土復帰は完結しない。(国)


2012年5月15日 東京新聞朝刊 11版 28ページ「沖縄を返せ-歌い継ぐ」から引用

 琉球語を話せる人が少なくなるのは残念なことです。ウチナーグチなどと言わないで、堂々と「琉球語」と称して、学校でも「琉球語」の時間をとって単位も認めるようにしたほうがいいと思います。教育基本法でも、伝統文化を大切にすることを重視するようになってますから、琉球文化も大事に継承されるべきです。10年くらい前に、社員旅行で沖縄に行ったとき、お土産に買った泡盛は、その年の県知事賞を受賞した旨い酒で、茶色のびんのラベルには、漢詩のような文言で「琉球は中国や日本、朝鮮からちょうど良い距離にある海上交通の要で、美しい海に囲まれ、人々が平和に暮らしている」というような意味だったと思いますが、古き良き琉球王国を彷彿とさせるものでした。なんという名前の泡盛だったか、忘れましたが、今度いつか沖縄に行けば、すぐ思い出せると思います。







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最終更新日  2012年05月30日 18時50分09秒
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