最近の新聞を読んだ感想について、ITジャーナリストの井上トシユキ氏は4日の東京新聞コラムに、次のように書いている;
本欄を担当することになり、新聞を今まで以上にじっくり読むようになって1年がたつ。新聞の存在意義の一つは、その記録性にあると思う。紙面を開けば日々の出来事が網羅的に記されていて、時代のはやり廃りや価値観までもが透けて見える。やがてネットのアーカイブや縮刷版となり、歴史の証人となっていく。記録は、間違いを繰り返さず、良いことや手本を後代に引き継いでいくためにも、不可欠なものだ。
しかるに、自衛隊南スーダン派遣や森友学園の問題では、大臣や官僚が、記録は残っていないと強弁してきた。識者や専門家が「公文書管理法違反」とするのも当然で、民主主義の根幹軽視と指弾されてしかるべきだ(「公文書は誰のもの?」5月20日朝刊4面、「『財務省は公文書法違反』」23日朝刊3面)。
直近でも、もんじゅの廃炉にあたって後継炉の検討を行った議事録が、9年間も作成されていなかった。みんなの税金をみんなのために使うのだから、やましいところがなければ記録して公開するのは当たり前のことだ。「やはり、後ろめたいのではないか」と問いただされて、羞恥や反省を感じない人物が、国民のために働けるとは、とても思えない。
「公務なら行き先問わず」(29日朝刊1面)は、情報公開請求によって明らかになった都議の公用車の運転日誌から分かった不都合な事実だ。記録を残しても曖昧な説明しかしないのだから、記録なしでは何をされるか分かったものではない。
23日、組織犯罪処罰法改正案が衆院を通過した。東京新聞ば翌24日の朝刊では1、2、3、7、24、25、27面を使い、さまざまな角度から、「共謀罪」の危険性を丁寧に報じてくれた。公の安全とプライバシーの両立は、簡単な話ではないが、一連の衛星利用測位システム(GPS)捜査を巡る裁判で、司法は「プライバシーが先にありきである」と判断しているように思う。
組織的犯罪集団と一般人との線引きも不透明な法律を、成立後の運用で是正していくことなど不可能に思える。せめて出直して、一から議論を再開すべきだ。
21日「読む人」欄で、大澤真幸氏は「無意識の右傾化とでも見なすべきことが進捗(しんちょく)している」と書く。「自分が特に『右』であるという自覚」がない人たちが、市民相互を含む監視社会に生き、何となく右を目指して歩む。
どこかで読んだユートピア(理想郷)の正反対の社会である「ディストピア」そのものだ。この国はどこへ向かっているのか。そして、向かおうとしているのか。ますます記録の役割に重みが増す。一年間のご愛読に感謝します。(ITジャーナリスト)
2017年6月4日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「新聞を読んで-重みを増す『記録』」から引用
この記事では公文書について、やましいところが無いなら記録をとって必要なときに公開するのは当たり前のことと筆者は書いてますが、これはあくまでも一般論であって、安倍政権に関してはこのような一般論は無用です。安倍政権の場合は、始めに「民主政治の否定」と「政治の私物化」があり、その証拠となる公文書またはそれに準ずる官僚のメールやメモなどは、存在しても「無い」と言い張る、こういう政権であるという認識が、今回の内閣府から文科省へのメールの存在確認で、国民に共有されたのではないかと思います。