幼い子どもが夢中になるテレビ番組について、自らも子育て中の関西学院大学准教授、貴戸理恵氏が11日の東京新聞にユーモラスな論考を寄稿している;
5歳の息子がテレビ番組のスーパー戦隊にのめり込んでいる。赤ん坊と変わらない紅葉のような手で、おもちゃの剣を振り回し「戦いごっこ」にいそしむ姿は「男らしさ」に疑義を呈するジェンダー論を学んでしまった母には、しんどい。もう平成が終わろうというのに、いったいいつまでメディアは「○○レンジャー」を通じて「男=戦士」の刷り込みを続けるのだろう。
そんなふうに初めは批判的だったのだが、よくよく見てみると、事はそれほど単純ではなかった。「戦うこと」の意味や「男らしさ」のあり方が、長い歴史のなかで変わっていたのだ。
変化を一言で表せば「ヒーローの不在と等身大化」である。スーパー戦隊シリーズが始まるのは、1970年代半ば。80年代までは「科学戦隊ダイナマン」「超電子バイオマン」など、科学の力で敵を撃退するものが目立つ。90年代以降「忍者戦隊カクレンジャー」「激走戦隊カーレンジャー」などオタク的なテーマを体現するものや、動物の野性味を打ち出す「百獣戦隊ガオレンジャー」などが現れはじめ2010年代までつづく傾向が示される。
「進歩する未来」が信じられなくなった時代、ヒーローたちは、もはや圧倒的な強さを備えて絶対的な悪と戦うのではない。身近な興味の対象や内に秘めた個性をよりどころに、仲間と協力して敵に立ち向かい、成長していくのだ。
こうした変化は「男らしさ」の描き方にも見られる。
「仮面ライダーシリーズ」の分析をした葛城浩一氏によれば、1970~80年代の「昭和ライダー」では、高学歴でスポーツ万能な文句のつけようのないヒーローが多いが、2000年以降の「平成ライダー」になると、主人公がニートであったり、仮面ライダーなのにバイクの扱いが下手だったり、趣味は料理など「力強さ」を感じさせない人物になるという(「ヒーロー像はどう描かれてきたのか」子ども社会研究18号)。
ところで最近、子どもと一緒にスーパー戦隊の絵本を読みながら、発見をした。最近の仮面ライダーシリーズの新版「ビルド」では、主人公はこれまでどおり敵と戦うのだが、その敵は一枚岩ではなく、敵同士も戦っており三つどもえになっているのだ。まあ複雑な、と見ていたら、なんと新しくスタートしたスーパー戦隊では「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」として、ヒーロー同士が戦っているではないか。
そこにあるのは「ヒーローの不在」を通り越し、「正義VS悪」という構図の不在である。スーパー戦隊が誕生してから40年あまり。ついに「悪と戦う正義」は失効したのだ。今では絶対的な「正しさ」は存在せず、さまざまな背景を持つ人びとが「自分なりの正しさ」を携えて、それぞれの立場で戦うしかない。
ここまできたならば、とフェミニストの母は思わずにいられない。「戦うこと」の自明性それ自体を、解体することはできないのか。イベントのたびに、おもちゃとはいえ剣や銃を買わされるのは、たくさんだ。世界を変えるために「戦うこと」に頼るのは必然ではない。男の子の成長過程における、脱暴力化を。例えば「ペンは剣より強い」を体現するような、新時代のヒーローが、そろそろ現れてよいのではないか。
(関西学院大学准教授)
2018年3月11日 東京新聞朝刊 11版 5ページ「時代を読む-新時代の『男らしさ』へ」から引用
そう言えば昔テレビで放送していた「ダイナマン」の頃は、頭脳明晰でスポーツ万能だから強いヒーローだったのに、それが時代に連れて変化してニートとか必ずしもバイクの扱いが得意でない仮面ライダーが登場するとか、価値観の多様化に伴って「正義」も一つではなく、立場によって色々な「正義」があるとか、世の中は変わっていくもので、「勧善懲悪」は世の中の一場面に過ぎないということだと思います。したがって、世界を変える必要に迫られた場合でも、将来は「戦う」という手段よりももっと文化的な手段が用いられる時代が来るであろうことも、私たちは展望していくべきではないかと思います。