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2018年11月27日
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テーマ:ニュース(99469)
カテゴリ:ニュース
今年は明治元年から数えて150年目に当たるというので、安倍政権は数年前から記念式典を実施すると公言し予算も確保してきており、そのような式典で一層の右傾化を懸念するあちこちの歴史学者のグループでは、それぞれの立場からの「明治150年」というタイトルの研究会を立ち上げる動きがあり、政府も地方自治体に150年記念式典の実施を呼びかけたようですが、明治150年をお祝いしようという機運は一向に盛り上がらず、東京で開いた政府主催の式典も開始から一時間もしないうちにあっさり終了するという「盛り下がりよう」だったらしい。その「明治150年」について、佛教大学歴史学部教授の原田敬一氏は18日の「しんぶん赤旗」に、次のように書いている;


 10月23日に小規模な「式典」が行われた、という記事が先日の新聞にあった。「明治150年」を寿ぐ集まりである。「明治150年」を祝えという政府の指示に、各地の取り組みは「維新150年」もあれば「戊辰150年」もあり、歴史観も歴史像もさまざまである。

 こうした状況や歴史学界の批判を気にしたのか、安倍晋三首相のメッセージは、「光と影、様々な側面を貴重な経験」としようと柔軟な姿を見せた。しかし、歴史観や歴史像が多様であることは当然のことであり、それを「寿ぐ」一面だけを見せるのは政治のミスリードだろう。

◆軍事紛争32年史

 明治維新で誕生した「明治元年」を起点とすると、今年は「明治150年」だという官邸の言い方に従うと、1945年は「明治78年」となる。その間に日本が関わった海外の軍事紛争があった年を数えてみよう。

1874年 台湾出兵
1882年 壬午軍乱
1884年 甲申事変
1894~96年 日清戦争(通説は95年まで、後述)



1900年  義和団戦争
1904~05年 日露戦争
1914~18年 第1次世界大戦
1918~25年 シベリア・樺太戦争(シベリア出兵)
1927~28年 山東戦争(山東出兵)
1931~32年 満洲事変・第1次上海事変
1937~45年 日中全面戦争
1841~45年 アジア太平洋戦争(第2次世界大戦)

 重複を整理して、戦争のあった年を数えると32年になる。78年間の半分近くが、海外で日本の軍隊が関わった軍事紛争や戦争があった年だった。受動的だった1882年の壬午軍乱(注1)以外は、日本軍が作戦を立て、積極的に仕掛けていった軍事紛争である。また日清戦争からアジア太平洋戦争までは、一貫して中国における権益の維持・拡大を戦争目的としているから、私たちは「50年戦争」と呼んでいる。

◆海外常駐軍62年史

 日本の軍隊が海外に常駐するようになったのは、壬午軍乱の後で、朝鮮政府と結んだ済物浦条約(1882年)によるものである。この条約で、漢城(現在のソウル)に置いた日本公使館守備のため「若干の兵」を置くことが決められた。交渉では「若干」とされたが、日本政府は拡大解釈して一個大隊(500人)を置いた。義和団戦争(注2)のあと連合国軍と清国が結んだ講和条約(1901年調印、辛丑(しんちゅう)和約、北京議定書)により、連合国軍が黄村(北京郊外)-山海関間の鉄道拠点警備を認めたが、それに日本も参加し小部隊を置いた。それをいつまでも撤兵させず、1937年に一挙に旅団規模に拡大させたのが、同年7月盧溝橋事件が起きる前の日本軍だった。

◆植民地支配50年史

 日清戦争の結果、台湾を新領土として清国から割譲を受ける。台湾には山岳民族が先住民として住んでおり、そこに中国大陸から漢族が移住してきていた。

 彼ら台湾住民の反対は強く、上陸した日本軍は、当初は元清国官僚らのつくった台湾民主国の抵抗を、その後は先住民の強い抵抗を受け、樺山資紀(かばやますけのり)初代台湾総督の「平定宣言」(11月)まででも6ヵ月、大本営の解散(1896年4月)まで1年間、陸軍海軍共同作戦で抵抗をつぶす戦争をしなければならなかった。私はこの台湾征服戦争も入れて日清戦争と呼ぶべきだと考えている(1896年日清戦争終了説の根拠)。台湾から日本の植民地支配が始まり、50年続いた。

◆軍隊のない4年間

 「明治150年」のうち、戦争も軍隊もなかった年が4年間だけある。1946年から49年までである。この4年間は、日本の軍隊はどこにもなく、戦争もなかった。厳密に言えば、中国大陸で軍司令部から残留して蒋介石軍と共に戦えと命じられた約2600人の兵士たちや、終戦を知らされず戦っていた沖縄や南方戦場(ペリリュー島など)の兵士たちがいるが、国家の制度としての軍隊はなくなっていた。

 その日本は輝いていた。占領期だということで屈辱的だった一面を強調する人もいるが、新しい理想を掲げて輝いていた。そのことが戦後の出発点だったことを忘れるべきではない。
(寄稿)


 注1・壬午軍乱=朝鮮軍兵士が政府に反乱を起こし、日本公使館も襲撃。公使館員らは応戦・退避し、日本人死者も出た。

 注2・義和団戦争=義和団の暴動をきっかけとした、中国清朝と日欧米8力国連合軍の戦争。連合軍が北京を制圧した。


はらだ・けいいち=1948年生まれ。専門は日本近現代史。『日清・日露戦争』(岩波新書)『「戦争」の終わらせ方』(新日本出版社)ほか


2018年11月18日 「しんぶん赤旗」日曜版 29ページ 「戦争ばかりだった日本」から引用

 この記事の末尾には朝鮮戦争が始まって警察予備隊が設立されるまでの4年間は日本に軍隊が存在しない「輝いていた」期間だったと書かれてますが、輝いていると感じたのは、それまでに戦争遂行のために窮乏生活を強いられた一般国民であって、戦争指導をしてきていた政府高官や戦争で不当に利益を上げた大企業経営者などは、軍隊を持つことを禁止されてこの先どうやって生きていくのか暗澹たる気分だったのではないかと思います。しかし、この72年間は、念のために設置した自衛隊も安保条約に基づいた米軍基地も、実際に日本の防衛のために使用するようなケースは一件もなかったという実績に、私たちは大いに自信を深めて良いと思います。これからは、互いにどの国とも脅威にならないことを確認して、やがては核兵器禁止に留まらず一般の武器の製造も禁止する時代が来るように努力していくべきだと思います。





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最終更新日  2018年11月27日 16時05分58秒
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