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2021年03月12日
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テーマ:本日の1冊(3690)
カテゴリ:読書
義江明子著「推古天皇」(ミネルヴァ書房刊)について、専修大学非常勤講師の伊集院葉子氏が2月28日の「しんぶん赤旗」に、次のような書評を書いている;


 女性・女系天稟への関心が高まるなか、わが国初の女帝・推古天皇(554~628年)の評伝が出た。推古が生まれた6世紀は世襲王権の形成期である。天皇の血統を引く男女からまず男性、ついで女性の順で経験豊富な王族長老が、群臣に推挙されて即位した。推古は、夫・敏達(びだつ)天皇死後、皇位をめぐる7年にわたる熾烈(しれつ)な争いを主導し、最終的な勝者として群臣に推戴された。

 即位後、推古は仏教を国づくりの中心に置く政策を蘇我馬子と進める。『日本書紀』が記す豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ)という名は、仏教保護者としての推古をたたえ生前に贈られた名だという。



 対隋外交を展開し、長く国政を領導した女帝の死後、後継者選びは難航した。本書の副題「遺命(のちのおおみこと)に従うのみ 群言(まえつきみたちのこと)を待つべからず」は群臣会議での一豪族の発言である。危篤の推古が残した「遺命」に従うべきで群臣の意見は不要というのだ。著者は、『日本書紀』が記録したこのエピソードに、王位継承の歴史上、推古が果たした役割の大きな意味を読みとる。36年にわたり国政で実績を槓んだ推古の言葉だからこそ群臣は尊重せざるを得なかった。推古は、「群臣の推挙によって決められてきた王位継承の歴史に、前王の意志を反映させる王権自律化の一歩を加えた」のである。

 推古以後の200年間、天皇の性別は男女ほぽ半々だった。古代は、財産や政治的権威・社会的地位が父方母方双方から継承される双系社会だった。著者が指摘するように、政治から女性を排除するという通念も乏しく、女帝たちは能力を認められて即位したのである。古代の残存史料は大変少なく6~7世紀の人物評伝には非常な困難がともなう。従来、推古の事績の多くは蘇我馬子や厩戸王(うまやどのおう「聖徳太子」)の功績とされてきた。これに対し、可能な限りの史料を精緻かつ批判的に読み直して通説を覆し、推古の生涯と実像に迫ったのが本書である。


評者・伊集院葉子(専修大学非常勤講師)

義江明子著「推古天皇」(ミネルヴァ書房)

<よしえ・あきこ> 48年生まれ.帝京大学名誉教授.『日本古代女帝論』(第40回角川源義賞)ほか。


2021年2月28日 「しんぶん赤旗」 9ページ 「実績で王位継承に意志反映さす」から引用

 この記事は、普段私たちが意識することのない割には、しかし、重要な情報を提供してくれていると思います。今から1400年前の日本には男尊女卑の習慣がなく、推古天皇の後の200年間は天皇の男女比率がほぼ半々だったとは驚きです。また、仏教を国づくりの中心に置くという政策も、当時としては先進的で賢明な政策であったように思われます。明治の政府のように、にわか作りの国家神道などという怪しげなもので国民を統率するのは、結果論かも知れませんが、うまくは行かなかったし、やはり民族や国境を越えて幅広く支持されている仏教とその文化を国造りの基本とするという政策に着眼した推古天皇は、当時の為政者としては優秀な人物であったことが理解できます。





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最終更新日  2021年03月12日 01時00分06秒


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