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カテゴリ:ニュース
最近自民党政府が言い出した言葉に「食料安保」という変な言葉があるが、この「食料安保」について熱心に取材を続けてきた朝日新聞・加藤裕則記者は、4日の同紙夕刊に次のように書いている;
2024年7月4日 朝日新聞夕刊 4版 9ページ 「取材考記-改正法理念『食料安保』農村との共存から」から引用 「食料安保」とは奇妙な言葉であるが、この記事のタイトルにある「農村との共存」という言葉も違和感をもたらす言葉である。「これからは共存していくことにしよう」と言えば、その前提には「今まではどっちが主導権を握るか争ってきたが、これからは・・・」というような状況が存在する場合の話である。果たして、そういう前提条件が存在することを認識した上で書かれたのがこの記事なのかという疑問を、私は感じます。人間が健康で豊かに暮らすために、農業すなわち食料生産は必須の事業ですから、国としても農業は基幹産業として最も重要な産業のはずです。だから、アメリカでは国策として農業従事者は手厚く処遇されており、農業生産物が天候の関係で必要量を超えて生産された場合、その分を政府が買い取るというような政策も頻繁に実施され、アメリカ合衆国の農業従事者は安心して仕事に従事することが出来るわけです。しかし、日本の場合はどうかというと、我々が小学生だった昭和30年代頃までは、農家が生産した米は一旦政府が全量買い上げた上で、米穀市場に卸すというシステムになっていたものを、経済の高度成長期に入ると「市場経済の導入」と称して、それまで政府が決めていた「農家からの買い取り価格」を、市場の取引に任せる時代となり、そこから「農村の苦境」が始まりました。その頃には、新聞はしきりに「米が余っている」というキャンペーンをしていました。何故そうなったかと言えば、それは日本政府が国産の自動車や家電製品をアメリカに輸出する代わりに、アメリカの小麦を輸入するという政策を取ったからで、テレビは連日「明るい家庭の朝食はパン」という設定のコマーシャルを毎日放送して、すっかりその気になった市民は、輸入小麦を消費する分、米の消費は減ってしまったわけです。そのため、日本中の農家はもはや専業農家としては家計が成り立たず、農閑期には都会に出稼ぎに出るのが一般化したのでした。このようにして農家を冷遇してきた結果、地方の農村に後継者は育たなくなり、耕作放棄された田畑は荒れ放題となり、住民も激減した限界集落となっているのが実情です。そのような因果関係を検討することもなく、「食料安保」などという目先の変わったスローガンを持ち出してみても、本質的な問題解決には遠く及ばないのではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年07月18日 07時54分36秒
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