カテゴリ:つれづれに、きままに
「人間が自己の存在を意識する」ということを、alexさんのブログ「存在の悩み 人間という存在」から誘発され、とりとめもなく考えている。 いまさら青臭いことと思うなかれ、いずれ死んでいく身、生きているうちにしか考えられない事なんだもの。 そんな思い煩いをしているとひょっと、「いつ自分を女と思ったんだろう」という疑問が湧いてきた。 「女に生まれるのではなく女になるのだ 」はボーヴォワールが「第二の性」で述べた有名な言葉であるが、ごちゃごちゃ考えるようになったのは、ずっと後、大人の女になってからのことである。 それで、わたしはこどものころいつ女であるということを意識したか。 当然ながら幼児期は自分を男か女か意識していない。自分が人間であるとも思っていないのだから。 わたしの時代にも子ども会があり、道路清掃のボランティアの時に、男の子がサボっていたのを見た。「男だからいいんだ!」とほざいてだらだらしていたのだ。 わたしは一年生だったが「わたしも男ならよかったのに」とうらやましく思ったのが忘れられない。そう思ったということは自分は女であると知っていたのだろう。しかも「男は掃除などしなくていい」と刷り込まれていたことになる。 もう少し学年が上ならば「サボったら、い~けないんだぁ~よぉ!」と黄色い声をはりあげていただろうが。そのころには民主教育(上からの)が功を奏していたはずだから。 しかし、その後なぜかそのときのことが忘れられず、区別があるからその言葉が出るのだと思うようになり、女を意識した時に対極として男があり、男と女があるのが人間、そしてわたしという人間が意識されたように思う。 女を意識した時に自意識がめざめた。セットでめざめたと言うのはどうも気に食わないが、そうだった。 つまらないことで、女と自意識を発見したものだ(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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