悪 寒
殺したいほど憎んでいた上司が殺された。
その犯人は、自分の妻だった。
東京地方裁判所812号法廷。
「 それでは、被告人にもう一度お尋ねします。あなたが被害者を殴るときに
『 もしかしたら死ぬかもしれない 』という認識はあったのですか 」
「 よく覚えていません 」
「 『死んでしまえ』と思ったのではありませんか 」
「 それもーーよく覚えていません 」
「 それはつまり、言いたくない、という意味ですか 」
「 いいえ本当によく覚えていないのです。興奮していたので 」
「 かっとなって、我を忘れていたと? 」
「 はい 」
「 しかし殴ったことに間違いはない 」
「 はい 」
「 なるほど。記憶というのは便利なものですね。
ところで被告人は、犯行時に二度殴っていますね。
後ろから、こうやってガツンと一度、そしてまたガツンと一度。
たしかに、一度目はかっとなったのかもしれません。
しかし二度目は明確な殺意を持って殴ったとはいえませんか。
世間では、こういう行為をなんと呼ぶか知っていますか 」
「 わかりません 」
「 『とどめを刺す』と言うんです 」
「 よくわかりません 」
「『おぼえていません』の次は『わかりません』ですか。なるほど。
ならば質問を変えます。あなたは以前から被害者を憎んでいましたか 」
「 それは 」
「 どうしました? 正直にお答えください 」
「 たぶん憎んでいたと思います 」
傍聴人のあいだに、さざ波のように私語が伝わり、それはすぐに
収まった。
「 被告人。すみませんが、もう少し大きな声ではっきりとお願いします 」
「 被害者をたぶん憎んでいました 」
「 殺したいほど憎んでいましたか 」
「 裁判長。異議を申し立てます。さきほどから検察側は、
明確でない被告人の記憶を恣意的に・・・・ 」
「はい 」
法廷内がざわついた。
「 失礼、今なんと? 弁護人の不用意な発言が邪魔をして、
よく聞き取れませんでした。もう一度お願いします。
裁判官や裁判員の席ににも聞こえるように、はっきりと 」
「 わたしは、被害者を殺したいほど憎んでいました。
殴ったときに殺意があったかどうか思い出せませんが、
あの男が死んでよかったと今でも思っています 」
「 それはなぜですか 」
「 なぜなら 」
検事の質問に答えた被告人の発言内容に、法廷内のざわつきが
さらに大きくなった。
「 お静かに。 傍聴人のかたは、ご静粛にお願いいたします 」
裁判長が声を張り上げる。
記者たちのメモをとる音が響き渡っていた。
著者: 伊岡 瞬
1960年東京生まれ。
2005年「いつか、虹の向こうへ」で第25回横溝正史
ミステリー大賞と東京賞をw受賞しデビュー。
2017年7月10日 第1刷発行
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最終更新日
2020年02月29日 11時04分56秒
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