サ ロ メ
プ ロ ロ ー グ
20×× 9月上旬
サヴォイプレイス ロンドン
やわらかな霧雨がヴェールになってしめやかに街を覆っていた。
タクシーの後部座席で揺られながら、甲斐祐也は、タナーの
描いた風景画のように水蒸気でくすんだテムズ川の様子を
ぼんやりと眺めていた。
あれはいつのことだったかーたしか東京国立近代美術館の
研究員になりたての頃、ロンドンへ出張でやってきたとき、
同行した美術課長が、何気なく口にした言葉ーーー
タクシーに乗るとロンドンに来たと感じるんだと、という
ひと言がふいに脳裏に蘇る。
一時停止するたびに、ドッドッドッドッ、と湧き上がる
ような音と振動が、シートの下から突き上げてくる。
ディーゼルエンジンならではの音と振動は、たしかにロンドン
タクシー独特のものだ。
屋根の高い車体は、その昔、山高帽を被った紳士が帽子を取らずに
乗り込めるようにと工夫されたものらしい。
タクシーが初めてロンドンの街中を走ったのは1901年。
技術の進歩で車はめざましく改良されてきたにもかかわらず、
エンジン音と振動と山高帽に合わせた車高は継承されてきた。
つまり、ロンドンっ子は、かれこれ百年以上もの長きに
わたってこの音と振動に親しんできた、というわけだ。
著者: 原 田 ハ マ
1962年、東京都生まれ。
関西学院大学文学部、早稲田大学第二文学部卒業。
商社勤務などを経て独立、フリーのキュレーター、
カルチャーライターとして活躍する。
2005年、「カフーを待ちわびて」で日本ラブストーリー
大賞を受賞し、翌年作家デビュー。
12年、「楽園のカンヴァス」で山本周五郎賞、17年、
「リーチ先生」で新田次郎文学賞を受賞、
著書に「本日は、お日柄もよく」「ロマンシエ」「暗幕のゲルニカ」
「サロメ」「たゆたえども沈まず」「美しき愚かものたちのタブロー」
「風神雷神」など多数。
2020年5月10日 第1冊
2020年5月30日 第2冊
発行所 株式会社 文藝春秋
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最終更新日
2021年10月28日 09時42分35秒
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