不 審 者
「このささやかな幸せを守るためなら、何でもするーー」
会社員の夫・秀嗣、5歳の息子・洸太、義母の治子と都内に暮らす
折尾里佳子は、主婦業のかたわら、フリーの校閲者として自宅で
仕事をこなす日々を送っていた。
ある日、秀嗣がサプライズで一人の客を家に招く。
その人物は、20年以上行方知れずだった、秀嗣の兄・優平だという。
現在は起業家で独身だと語る優平に対し、息子本人だと信用しない
治子の態度もあり、里佳子は不信感を募らせる。
しかし、秀嗣の一存で優平を居候させることに。
それ以降、里佳子の周囲では不可解な出来事が多発する。
序 章
( 激しく降る雨が、すべてを濡らしている。
「 お願い、もう許して 」
全身ぐしょ濡れの、トレンチコートを着た女は振り向き、
泣きながら懇願した。
12階のビルの屋上、そこで行き止まりだ。柵もない。
彼女の足の先にはもう踏みしめるべきものは何もない。
はるか下方に、ビルの明かりを反射して黒く光る、濡れた都会の
アスファルトが見える。
「 お願い、助けて 」
その頬を伝うのが雨なのか涙なのかわからない。聞こえない。
おれの心は何も聞こえない。もっと泣け。
おまえに冷たくされて、おれの心はどれほど傷つき血の涙を
流したことか。いまこそ思い知るがいい。
ボウガンの引き金に指をかけたとき、いつか読んだ本の一節が
頭に浮かんだ。
「おまえが長く深淵を覗き込むとき、深淵もまたおまえを覗き込む」
何をいまさら。
深淵を覗き込むどころか、とっくに底をはいずりまわっている。
おれは引き絞ったボウガンの矢を、女の腹のあたりに向け、
引き金に力を込めた。ー )
折尾里佳子はそこでいったん視線を上げ、冷えたコーヒーに口をつけた。
現在、400字詰め原稿用紙換算で800枚近い長編小説、
「 遥か深き夜の底から 」もようやく終盤にさしかかってきた。
ゴールが見えてきたことにはほっとするが、ミステリは、
むしろこのあたりから一層気が抜けない。
著者:伊岡 瞬( いおか しゅん )
1960年 東京生まれ。
2005年「いつか、虹の向こうへ」で第25回横溝正史
ミステリー大賞とテレビ東京賞をW受賞しデビュー。
著書に「145gの孤独」「瑠璃の雫」「教室に
雨は降らない」「代償」「もし俺たちが天使なら」
「痣」「悪寒」「本性」「冷たい檻」など。
2019年9月30日 第1刷発行
発行所: 株式会社 集英社
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最終更新日
2021年11月25日 12時34分47秒
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