30563904 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2023年07月20日
XML
カテゴリ:霊魂論
「四次元」数学と現実
第1講:1905年3月24日、ベルリン 2-〇・一・二・三次元(図1ー図6)
 最も単純な幾何学的対象は点です。点はまったく広がりをもっていません。それは想像することができるだけです。点は空間におけるひとつの位置を指し示すものです。即ち点はゼロに相当する次元をもっています。
図1:第一の次元は線によって与えられます。直線はひとつの次元をもっている長さです。太さをもたない線をそれ自身動かせば、第一の次元を離れて、面になります。面は長さと幅という2つの次元をもっています。面を動かせば、これら2つの次元から離れます。その結果、立体が得られますが、立体は高さ、幅、奥行きという3つの次元をもっています。(図1)しかし、ある立体 たとえば立方体を空間のなかで動かしても、結果はやはり単なる3次元の立体です。立体は単に動かしただけでは 3次元の 空間から離すことはできないのです。
図2:さらにいくつかの概念を見ていきましょう。線分を考えてみますと、それは2つの境界、A点とB点という2つの末端をもっています。(図2)
図3:A点とB点を合わせようとすると考えてください。それをするためには線分を曲げなければなりません。そのとき何が起こりますか。A点とB点を合わせとうとすると、 1次元の直線のなかにとどまっていることはできません。これらふたつの点を結合するためには、直線それ自体から外に出なければなりません。つまり、第1の次元から出て、面という第2の次元に移行しなければならないのです。このようにして、その末端が重なることによって、直線から 閉じた曲線、つまりもっとも単純な場合 円が成立します。(図3)線分を円に変化させることができるのは第1の次元から離れることによってのみです。同じ操作を 長方形の形をした 面で行うことができます。しかしこれができるのは、2次元のなかにとどまらないときだけです。長方形を管、筒に変化させるためには第3の次元に入らなければなりません。この操作は前に第1の次元を離れることによって2つの点を重ねたときと全く同じ仕方で行われます。私たちはここで 面の場合 、面の2つの端を重ねるために、第3の次元に入っていかなければなりません。(図4)
図4;すでにそれ自体で3次元を有している空間構造で、同様の操作を行うことができると考えられるでしょうか? 2つの合同の立方体が3次元の直方体の境界をなしていると考えてみて下さい。そのひとつの立方体を別の方にずらして重ねることができます。さて、ひとつの立方体の一方の面が赤、 その反対側の面が青に 塗られていると想像して下さい。この立方体を、 幾何学的には まったく同じですが赤と青の色が逆に塗られているもうひとつの立方体に一致させるための唯一の方法とは、一方を回転させ、そしてそれらをスライドさせて重ねることです。(図5)
図5:別の3次元の対象物について考察してみましょう。左手の手袋をとってください。左手の手袋を右手にはめることはできませんね。しかし、お互いが鏡像体である一組の手袋について考え、そしてAとBの末端をもった線分について考えれば、その手袋がいかにお互いに属しているかが理解できます。それらは中心に境界 つまり鏡の面 を有する単一の3次元像を構成しています。このことは人間の外皮の2つのシンメトリックな半分についても言えます。お互いが鏡像体である2つの3次元構造をどのようにして重ねることができるのでしょうか?それはちょうど前の例で第1および第2の次元を超えたように、第3の次元を離れるときにのみ可能なのです。4次元空間を通っていくことによって、私たちは右の手袋を左手に、あるいは左の手袋を右手にそれぞれはめることができます。 観照空間の第3の次元、つまり奥行きの構築に関しては 私たちは右目から来る像を左目から来る像に重ねています、つまり、ふたつの像を融合しています。 ここでツェルナーによるひとつの例を考察することにしましょう。ここに円があり、その外側に点Pがあります。どのようにして円を横断しないで点Pを 円の中に 入れることができるでしょうか? 面の内部にとどまっているときには、それはできません。正方形を立方体に移行させるときには第2の次元から第3の次元へと超えていかなければならないように、ここでも第2の次元から出ていかなければなりません。同様に球の場合にも、 球の表面を突き抜けるか、または 第3の次元を超えていくことなくしては、 内部に 入っていく可能性はありません。(図6)
図6:これらは概念的な可能性ですが、認識論に関しては、 特に知覚内容の客観性の認識論的な問題に関しては 直接に実際的な意味をもっています。私たちはまず第1に人が実際どのようにして知覚するのかを明確に理解していなければなりません。私たちはどのようにして感覚を通して対象物についての認識を得るのでしょうか? 私たちは色を見ます。目がなければ私たちは知覚することができないでしょう。そのとき物理学者は言うでしょう。空間の外には色と名づけられるようなものは何もなく、純粋に空間的な運動形態があるだけだ。それが私たちの目を通り、視神経によって把捉され、脳へと送られ、そこでたとえば赤が生まれるのだ。次に、こう問うこともできます。知覚がそこにないとしたら、赤ははたしてそこにあるのかと。赤は目がなければ知覚することはできないでしょう。鐘が鳴るのも耳がなければ知覚することはできないでしょう。私たちのすべての知覚は、運動形式が私たちの肉体的魂的器官によって変換されることに依存しているのです。しかし、次のように問うとき、事態はもっと複雑になります。いったい本当にこの固有の性質である赤はどこにあるのかと。それは私たちが知覚する対象物の上にあるのでしょうか。或いはそれは振動過程なのでしょうか。私たちの外部に発した一連の振動過程は目の中に入ってきて、脳そのものにまで伝達されます。至る所に振動の、そして神経の過程がありますが、どこにも赤という色はありません。目そのものを調べてみても赤を見つけることはできないでしょう。それは私たちの外にも、また脳のなかにもありません。私たちが自らを主体としてこの運動過程に相対するときにのみ、私たちは赤を有するのです。では、いかにして赤が目と出会い、嬰ハ(えいハは、西洋音楽の音名のひとつ。ハの楽譜上の位置を変えずに半音上げた音であり、楽譜ではハに♯を付けて表す。)が耳に出会うのかについて論じることは不可能なのでしょうか。問題は、この種の内的な 心的表象とは 何か、それはどこで生じるのかということです。 世紀の哲学的な著作には、この問いがすべてを貫いて流れているのがわかります。たとえばショーペンハウエルは、次のような定義を行っています。「世界は我々の心的表象である」と。しかし、その場合、外的な物体にはなお何が残っているのでしょうか。 色の心的な表象が運動によって生じることができるように 、私たちの内部における運動の知覚も、何らかの運動していないものの結果として生じることができます。動いている 馬の姿のスナップ写真を、その間に細いスリットのついた筒の内側に貼りつけると考えてみましょう。私たちが回転している筒を横から見るとき 、常に同じ馬がいて、ただ足を動かしているという印象を持つでしょう。同様に、何かが実際には まったく動いていないときでも、私たちの体ー組織を通じて、運動の印象が引き起こされるのです。こうして、私たちが運動と名づけているものは無へと解消されます。しかしそのとき物質とは何なのでしょうか。物質から色の輝き・動き・ 形態」そして感覚的な知覚によって媒介されるあらゆる性質 を取り除いてください。そうすれば何も残らなくなります。私たちが 色・音・熱・味・匂いといった外的世界の過程によって個人的な意識のなかに呼び出される副次的な、つまり主観的な知覚を私たちの内において求めなければならないとしたら、私たちは形や動きのような基本的な、つまり「客観的な」知覚も私たちの内に求めなければなりません。外的世界は完全に消えてしまいます。しかしこの事態は 認識論に関する 重大な困難を引き起こします。



オカルト・ホラー小説 ブログランキングへ





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年07月20日 06時07分02秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

プロフィール

cap-hiro

cap-hiro

サイド自由欄

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

バックナンバー

楽天カード

フリーページ


© Rakuten Group, Inc.