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Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年02月21日
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カテゴリ:霊魂論
ルドルフ・シュタイナー 初期哲学論文-6
真理と学問
Ⅱ.カントの認識論の根本問題
 次に考え得ることは、認識論の研究を始めるに際して、絶対的に妥当する認識は経験に由来しえないのだとは決して主張してはならないということである。経験そのものが経験から獲得される洞察の確かさを保証する何かを示しているということは、疑いもなく考えられることである。 かくして、カントの問題設定の中に次の二つの前提が存する。第一に、認識へ到達するために、我々は経験の他にもう一つの道を持たなければならないということ、そして第二に、全ての経験的知が、ただ条件つきの妥当性のみを有しうるということである。これらの命題は吟味される必要があること、これらの命題が疑われうることに、カントは全く考えが及ばなかった。彼は独断論哲学に由来する偏見としてこれらの命題を吟味せずに受取り、それらを批判的な考察の基礎とした。独断論哲学は、これらの命題を妥当なものとして前提し、これらの命題のもとで知に到達するために、これらの命題を吟味せずに用いた。カントはそれらを妥当なものとして前提し、そしてただ次のように問うだけである。どのような前提の下でそれらは妥当でありうるのか?それらが全く妥当性を欠いているとすればどうなるのかと。そうである以上は、カントの体系的学説にはいかなる基礎付けも欠けているのである。 カントが彼の根本問題の定式化に先行する五つの節で述べること全てが、数学的判断とは綜合的であるという証明の試みである*⁹。しかし、今しがた我々によって挙げられた二つの前提は、学問的偏見のままである。「純粋理性批判」第二版の序論Ⅱでは次のように言われている。「経験は、なるほど、或るものがこれこれの性質をもっているということを私たちに教えはするが、しかし、その或るものが別様ではありえないということを教えはしない」(※1)。そして 、「経験は決しておのれの判断に、真のないしは厳密な普遍性を与えず、ただ想定された相対的な普遍性(帰納による)しか与えない」(※2)。「プロレゴメナ」1節で我々は次の文を見出す。「まず第一に、形而上学的認識の源泉について言えば、この認識の源泉が経験的なものであり得ないことは、すでに形而上学的認識という概念に明示されている。それだから形而上学的認識の諸原理(この認識の原則ばかりでなく、その基本概念もまたこれに属する)は、決して経験から得られたものであってはならない。形而上学的認識とは、自然的認識ではなくて超自然的認識、即ち、経験の彼方にある認識を意味するからである」(※3)。最後に、カントは『純粋理性批判』で次のように言う。「まずもって注意されなければならないのは、本来の数学的命題はいつでもア・プリオリな綜合的判断であって、経験的ではないということである。というのも、数学的命題は、経験からは推定されえない必然性を帯びているからである。しかし、このことを認めようとしないなら、よろしい、私は私の命題を純粋数学に限るが、純粋数学という概念は、それが経験的認識を含むものではなく、ア・プリオリな純粋認識のみを含むものであるということを、既に必然的に伴っているのである」(※4)。好きなところでよいから、『純粋理性批判』をめくってみてほしい。すると我々はどこでも、同書の中でこの独断論的な命題の前提のもとに全ての考察が行われているということを見出すだろう。コーエン*¹⁰とシュタットラー*¹¹
は、カントが数学的で純粋自然科学的な諸命題のア・プリオリな本性を明らかにしたことを証明しようと試みる。しかし今や、「純粋理性批判」において試みられるもの全てが、次のように要約できる。数学と純粋自然科学はア・プリオリな学であるから、全ての経験の形式が主観の中に基礎付けられなければならないのであると。そうすると、経験的に与えられる感覚素材だけが残る。この感覚素材が内面の中にある形式を通して経験の体系へ組織される。感覚素材のために秩序付けを行なう原理としてのみ、ア・プリオリな理論の形式的真理は意味や意義を持つ。つまり、それは経験を可能にするが、経験を超え出ることはない。しかし、この形式的真理はア・プリオリな綜合的判断であり、そ故にこの綜合的判断は、可能な全ての経験の前提条件として、できる限り可能な全ての経験に到達できなければならない。従って「純粋理性批判」は、数学と純粋自然科学のア・プリオリ性を証明しているのでは全くなく、それらの真理が経験に依存することなく獲得されるべきであるという条件の下で、ア・プリオリであることが証明可能な分野を規定しているにすぎない。実際、カントは、このア・プリオリ性を証明することに、殆ど手を付けることがなかったので、カントの見解に従ったとしても、ひょっとしたらア・プリオリ性が疑われるかもしれない数学の分野をあっさりと除外し、また彼が単純な概念からそれを推論できると考える分野に限定するのである。ヨハネス・フォルケルトも、「カントは実際に一つの普遍的で必然的な知が存在するという明確な前提」から出発していると考える。彼はその上、更にこう言う。「カントによって決して明確に検討されていないこの前提は、「純粋理性批判」を批判的認識論と見做してよいかどうかという問いを真剣に提起しなければならないほど、批判的認識論の性格と矛盾している」*¹²。フォルケルトは確かに、この問いを肯定してよい十分な理由があると考えるが、しかし「カント的認識論の批判的態度は、かの独断論的前提によって根本的に損なわれている」。フォルケルトでさえ「純粋理性批判』が無前提な認識論ではないと考えていることは確かなのである。
【原注】
*9:たとえ完全には論駁されていなかったにせよ、ロベルト・ツィンマーマンの反論(カント
の数学的偏見とその帰結に関する)によって、疑問視された試み。
*10:コーエン『カントの経験の理論』p.90 ff.
*11:シュタットラー『カントの哲学における純粋な認識論の根本原則』p.76 f *12:フォルケルト『経験と思考』p.21
 ベネディクト・シュタットラーは、ドイツのカトリック神学者、哲学者、イエズス会士でした2。彼はカントの反対者として知られ、キリスト教の真理を数学的な厳密さで証明しようと努力しました2。彼の業績は教会から認められず、不遇な晩年を過ごしました2。主著には『キリスト教神学』Theologia christiana (6巻,1776~79) と『アンチ・カント』Anti-Kant (2巻,88) があります2。
【訳注】
※1:原佑訳(渡邊二郎訳)『純粋理性批判(上)』平凡社ライブラリー 2005 年 p.83
※2:ibid. P.83
※3:篠田英雄訳『プロレゴメナ』岩波文庫 1977 年 p.30-31
※4:原佑訳(渡邊二郎訳)『純粋理性批判(上)』平凡社ライブラリー 2005 年 p.109

参照画:ヘルマン・コーエン




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最終更新日  2024年02月21日 06時09分56秒
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