「終戦の想い出(4)」
アメリカ芙蓉 「戦争終結戦後70年・終戦の想い出(4)」 昭和21年(1946)夏に神戸に帰ってきて、生田神社東門筋の北の中山手通に住み、兵庫県立神戸第二中学校に二学期から編入学して通学を始めた。大変だったのは、田舎の学校で勤労動員などに時間がとられ、勉学が遅れていて、漢文などちんぷんかんぷんで追いつくのに必死だった。体格的にも発育が遅れていて、ユーカリの大木がそびえ立つ運動場での朝礼ではいつも最前列に立っていた。体の小さな漢文の姉崎先生がつかつかとやってきて「おいお前、はよ大きくなれよ!」と言われたことを覚えている。(幸い大学に入ってから身長が10cm以上も伸びて一人前になった。) そのころ仲間が出来た。白と灰色の毛のふさふさとしたテリアの雑種犬を貰い、「ロック」という名を付け、殺伐とした生活に潤いが出来た。よく散歩に北野坂を上がり、神戸背山の二本松まで30分ほど登ったものだった。成長したら体長70cmほどの中型犬になった。ロックは面白い犬ではしごを登り、屋根の上を猫のように走り回っていた。 当時は食べ物も少なく、食糧に足しにしようと空き地にサツマイモの苗を植え育てて、やがて秋になり、1個500g~1kgの立派なサツマイモが採れたが、食べてがっかり!全然甘くなかった。下肥だけの肥やしのせいであろう。だが無花果は立派に育ち200個ほどの甘い実を付けてくれた。 昭和22年(1947)学制改革が施行され、神戸二中は兵庫県立兵庫高等学校に変わったが、中学校部分は併設中学校として存続し、昭和23年には兵庫県立兵庫高等学校併設中学校卒業となり続けて兵庫高等学校入学となった。ちなみに、小学校は、長田尋常小学校入学。長田国民学校卒業である。そして、兵庫県立小野中学校入学、兵庫県立神戸第二中学校編入学である。 このようにして兵庫高校生として受験勉強に取り組んだが、体が小さいのでスポーツをするでなし、真空管アンプ組立に熱中して将来は電気技師になりたいと思うようになっていたのだが、いざ、大学受験というとき、経済的にも国立でなければやっていけない、しかも通えるところとなれば神戸大学しかない。しかし、神戸大学工学部電気工学科は優秀な人材が集まり倍率も高く、とても合格することは望みなしと諦めて、昭和23年の学制改革のとき出来て倍率の低かった神戸大学工学部工業化学科に変更した。(高校2年のとき、試験で化学100点取ったことも要因)それが功を奏して何とか合格することが出来た。合格報告に行ったとき、金田先生は「お前の成績でよく合格したな!」と奇蹟のような顔をされていた。 このお陰で、「レア・アース(希土類元素)」にも巡り会え、よき同級生とも未だにクラス会でお付き合いをしている。終戦後の一大転機であった。(おわり) <昨夜からの雨が上がらず、今朝もじゃんじゃん降っている。昨夜は一時、目覚めるほどの豪雨だった。被害が出なければいいが。 今朝は24℃湿度82%と蒸し暑い。山はすっかり霧に覆われて見えない。蝉も鳴かず、桜の葉に降る雨音だけが聞こえ、電車の音が大きく感じる。>