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カテゴリ:鬱病の世界に生きる
NPOハート・リンク・コミュニティ主催の第8回「ニートと親子のためのほっとカフェ」(7/20)で話をさせていただく機会を得ました。
私は団塊の世代で、私の青春時代にはニートという言葉はありませんでした。 何とはなく学校に行き、何とはなく就職し、何とはなく結婚をするのが普通でした。それに対して特に疑問を持つことはありませんでした。 私は小学校時代から学校教育に馴染めませんでしたが、それを否定するだけのエネルギーも持ち合わせませんでした。 大学受験の時には躁状態になり、高校生活3年間で学ぶ課程を2~3ヶ月でクリアーしただけです。 大学でも躁状態になり、国家公務員上級職試験に合格しました。学校には出てこないが寮で勉強しているとの噂が飛び交い、お情けで卒業させてもらいました。 原子力発電所の環境アセスメントの仕事に就きましたが、科学者としての良心、公務員としての良心と仕事が両立せず、躁鬱病を発症し、病気退職をしました。 失意の内に故郷の金沢に帰りましたが、アルコールの向こうの暗黒の世界の中でしか生きられない人間になりました。 躁鬱病とアルコール依存症との合併症で入退院を繰り返し、精神病院の鉄格子の向こうでの生活も数年になります。 金沢で生活ができなくなり、断酒会発祥の地下司病院に流刑?になりましたが、それでも院内飲酒をし、瞳孔は開き血圧は0になり、仮死状態になりました。 適切な治療のお陰で息を吹き返した私は、神様との出会いを体験しました。「それでも私はおまえを愛している」という声が聞こえたような気がしました。 その時、私は生まれて初めて「生きたい」と思いました。それまで、世の中を斜にしか見られなかった私は、自分の人生を自分の力で歩み出したのです。 1年間にわたる入院生活を終え、アパートでアル中仲間の青年と共同生活を始めました。断酒はしたけれど、「生きる目的」が見つかりませんでした。 高知教会で東京神学大学学長の松永先生の講演があり、講演の後に神学校に人を送って下さいとのアピールがありました。これだと思いました。 松永先生に躁鬱病でアルコール依存症ですが、神学校に入学できますかと手紙を書きました。神学校はいかなる人間も差別しませんとの返事がありました。 高知教会や下司さん、西風の会の仲間の応援があり東京神学大学に進学しました。何度も挫折しにかかりましたが、多くの人の助けにより卒業できました。 高知教会に赴任しましたが、新婚生活が始まったとたんに高知教会から契約の更新を断られました。目の前が真っ暗になりました。 その時に、香美教会の山上先生が私たちを心配して香長伝道圏に来るように誘って下さいました。住む家はある、謝儀は1万円という条件でしたが喜んで引き受けさせていただきました。 夫婦でアルバイトに塾をするつもりでしたが、赴任をしたら伝道圏の教会から毎月献金があり、生活は十分に満たされました。 瀬戸の地で開拓伝道を始めるにあたっても、教会の建設資金は全国からの献金で賄われました。会堂建設献金すら積み立てることができました。 私の人生を通して一つだけ言えることは、「自分が変われば、世界も変わる」と言うことです。先ず自分が変わることが必要なのです。そうすれば必ず道が開かれます。 西風の会 HP, お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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