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シンガポールを三日間滞在した後、高速艇はインドネシアのタンジュンピナンにたった三十分で到着した。空路以外の入国はビザがいると聞いていたので、イミグレーションオフィサーが何かいう前に、有り金を全部見せるという子供だましの手段に訴えた。笑いながら、パスポートにスタンプを押してくれた。
木の突堤に足を踏み入れると、ガラム煙草の丁子の匂いが国を充満しているのが分かった。暑い国では甘さを許容してしまう。その匂いに加え、土の湿った臭いがしてくる。 八十六年夏、生まれて初めて水を買った。先の船旅に備えて。異郷の地で食べ物が合わないのは我慢できるが、水が合わないのは致命的だ。いくら慣れ親しんだ料理でも味付け以前に味が違う。浴びる水に対する体の反応も。 全長十メートルの船は体操座りが辛うじてできる程の乗客を乗せて出港した。マラッカ海峡の上で、私は同じ質問を何度も受け、延々と答える。 朝、起きると河に入っており、私は同じ質問を何度も受け、延々と答える。 二回目の夜はついにたまらなくなり屋根に登り、寝袋に潜って眠る。 三日目の朝、靄がかかり両脇の陸から木々がかすかに見える。寝袋は朝露でべったりしている。円錐形の葉をぎっしり詰められた両切りの煙草の煙は、船の速度にぴったりだ。一メートル下では重なって人々がまだ眠っており、もはや、質問はなかった。 昼。石油の出るだけの退屈な町で。 個人経営のパン屋兼八百屋兼冷凍食品店兼お菓子屋といった感じの店があった。ザリガニ釣りのために、いつも竹輪一つ買って、ザリガニも嫌うと信じられていた皮だけ食べて赤いバケツに放り込んで、池に向かうという少年達の一人が私だった。 それから十年近くの間に、町は奥へと造成されていき、その中にスーパーができ始めた。また、我々の古い家周辺も庭を壊してガレージを造り、車やバイクを購入し、行動範囲を次第に広げていった。 私は高校生になっていた。文化祭の用意のために急遽林檎がひとつ必要になり、その店を思い出し、十年ぶりにその店に訪れた。店の面積は縮小され、奥は食堂になっており、引き戸の隙間からちゃぶ台のようなものと家族が見えた。何かいけないものを見たような気がした。奥からきっちり十年分年をとったおばさんが出てきた。林檎は三つセットで売っているものが一つだけあった。私は恐縮して自信なさそうに「ひとつだけ欲しいのですけど」とおばさんの目を避けて林檎を注視したままいった。おばさんのため息が聞こえてきたような気がした。そして、おばさんの手がためらう様に、林檎に伸び、ゆっくりパックからひとつだけもぎ取り、素早く価格から三を割り、端数切り捨ての値段をいい、私に林檎をゆっくり差し出した。 それから暫くして、店仕舞いと同時に家族さえも引っ越していった。 時代の速度は、相変わらず速いままだ。意識でさえも。 そんなことを考えながら、六時間後に出るバスを待ちつつ、街の小さな市場を歩いていた。小さいながら等身大の市場だ。サランラップに巻かれて窒息しそうな綺麗なだけの食料が並ぶスーパーマーケットと違い、ドリアンの強烈な臭いを筆頭に、濃厚な空気が充満している。時折、子供にからかわれてみたり、店の人に呼ばれて試食してみたりする。 短期のバイトで「スーパーマーケット徹夜改装工事」というのをよくやった。肉体的には結構しんどい仕事ではあるが、作業中、頭の中は違うことを考えられることが好きだった。その夜は、少し遠方で仕事があるということで、バイクを飛ばして、現場に向かっていた。爆音は嫌いだが、スピード感はたまらない。「ロック・アラウンド・ザ・ロック」が頭の中を流れる。 そこに車が飛び出す。転がる私。「とにかく、止まってくれよ、俺の体よ」と念じつつ、「対向車線の車も止まってくれよ」と願いつつ、「うわー。修理代たまらんなあ」と悔やみつつ、私の頭の中では幼い頃からの成長過程がスローモーションで流れ、鮮明な映像として流れ、おまけにBGMとして微かに「夕焼け小焼け」が流れていた。 パノラマ現象は終わった。対向車と私の距離が三十センチの距離を残して。正気に戻った瞬間、強烈に恥ずかしくなり、対向車に向かって「なんちゃって」ポーズをして笑顔で答え、バイクに向かって「情けねえよな」とつぶやき、面倒くさそうに余裕のふりをしてバイクを立て直し、脇道に寄せる。車に乗っていたおっさんから金を巻き上げ、バイト先を急ぐ。ミラーのないハンドルの若干歪んだバイクで。人生は実は、いや時間というものは実に主観的なもので、かなり疑わしいものではないだろうか?と再認識しながら。時間枠のなくなる夢のようなものではないだろうか?今、八時間待ったバスに乗って、うとうとしているけど、もしかして起きると、まだ小学生だったり、もう老人だったりすることはないだろうか?長い夢も一瞬なのだ。 バスはまだ走っていた。スマトラ島中腹の曲がりくねった道を、まだ走っていた。 途中止った休憩地で、濃厚な卵と、濁った水を飲んでしまった。腹を壊せば、現実を確認できるのでは、と何となく思ったからなのかも知れない。 朝には海沿いの町パダンに到着した。シャツはすっかりバスシートを掃除して黒ずんだ。顔は汗を何度も流しては乾かし、その度に夜風を受けたために塩と砂を交えてざらついていた。潮で体を拭きたいと思った。そのまま泳いでみたいと思った。 とにかく町外れまで歩いてみた。川があった。幅十メートル程の濁った川。橋はなかった。渡し舟が一艘あった。当然商売なんかになる筈のなさそうな人通りのない道端。川向こうにはあぜ道が続いているのが見える。一日いったい何人がこの舟を利用するというのだ、とは思ったが、船頭のおやじは苦虫を潰したような顔を一向に崩そうともせず、私を獲物と見据えると、「乗れ」と合図した。乗船時間十秒、三漕ぎ。運悪く、私は五百ルピア(四十円)札しか持っていなかったので仕方なく渡すと、そのままくしゃくしゃにお札を丸めて、苦虫おやじのポケットの中に吸い込まれていった。その表情を崩さぬまま「早く行け」と手で追い払われる。「おいおい、お釣、お釣をくれ」と私は呆れながら手を出すと、「ぼったくってやったぜ」という後の急に優しくなったり怒りっぽくなったりした態度にはならずに、「道はあっちだ」と私を追い払う。もう一度催促してみたが、相変わらず苦虫を潰し続けている。 「参ったよ。苦虫ポーカーフェイスじいさんよ」私は頭の中で、頭をポーンと叩いてあぜ道を歩き出した。 すぐ丘の上に中国人墓地に辿り着いた。剥げ落ちた水色の墓が急斜面に散在し、その先の絶壁の向こうは荒波の迫るインド洋が広がっていた。海は遠くに行く程青さを増し、空と海との境界線をあやふやにしていた。近くに亀のような島がひとつ。直径三十メートル程で、木が覆い茂って地肌を隠していた。 脇道から砂浜まで降りてゆき、十数キロある荷物を降ろし、椰子の側に置き、全服をその上に置き、荒波に向かって行った。 そして、ジャワ島へ スマトラ島を南下し、ジャワ島に入ることにした。道は年々良くなっているのだろうが、相変わらずスマトラバスは世界有数の厳しいバスだぞ、と聞いていた。バス会社は多くあちらこちらで客引きをしている。 世界六番目の島(七番目が本州)というのが、何となく親近感が持ててしまうのだが、赤道直下のジャングルの島で、山がインド洋まで迫っているという瑞穂の日本とは趣をかなり異にする。瑞穂っていうのも恥ずかしいものだ。ジャングルというのも木材や鉱山乱伐で恥ずかしいものだ。 もともとプランテーションや木材を運ぶための道路を改造したに過ぎない道路は雨季乾季の繰返しで凹凸し、ジャングルのせいでカーブばかり。遠方を見渡せるという景色はなく、ただバスは一晩中カーブを続け、ひたすら頭をぶつけながら何かを考えるしかない。 初め少なかった乗客も、徐々に増え、通路に人が無理矢理座っている。私の足元には私の足を枕に子供が寝ている。足の組み替えさえできない私の足には、お漏らしでべたべたになり、おまけに通路に座っている母親はそれに気づきながらも、「私達も耐えているのだから、あなたも耐えなさい」という目で訴えてきた。 道はいつまでもくねっているが、私の体力は続かず、不快のまま、カーブの度に体をフラフラ動かしながら自分が眠っているのが分かる。右に頭が寄る度に、隣の母の手によって頭をポーンと押し戻されているのは分かっているのだが、体は寝てしまっていて、自由にならない。左に頭が寄る度に窓枠に頭をぶつけているようだが、割れないことをひたすら祈っている。窓ガラスは片面しかなく前後の客で数分ごとに罵詈雑言と共に引っ張り合いをしているようで、数分間風は入らず熱く、あとの数分間は砂埃が入ってくる。旅行者として一番バス慣れしている私でもこの状態である。カーブの連続によって半数の人々は既に嘔吐し、バスに積まれている鶏と穀物とガラムの臭いと交じって、いよいよ終末感を醸し出していった。私の目は、既に魚の目。 一方、運転手は二人、車掌は三人、車掌の一人は休憩。二人はバス昇降口前後に身を乗り出し、カーブする度にバスの側面を叩き、奇声をあげて安全を確認する。運転手は一人は睡眠、一人は目を血走らせねがら、大音響で夜中の三時であろうがテープをかける。それに応え、車掌達はバスの側面を叩いてリズムをとったり奇声をあげる。つまり安全確認なのかノリノリなのかは不明だ。不快な夢の入口で音の割れたインドネシアンポップスが流れている。眠れないのに起きられない状態を続け、カーブで頭を打ち、目を開けると運転手もハンドルを切りながら、ハンドルを叩いてリズムをとっている。食事時間だけが休憩時間で、交代する二人の運転手の疲労度の都合で停車する。一日三食。朝食は朝の四時だったり、夕食が昼食の三時間後であったりする。 夜中の三時。暗い食事以外に止ったのは、スマトラ島ジャワ島間スンダ海峡のフェリーと、バスのすれ違いどきにお互いの後部がぶつかって運転手同士の喧嘩が長引いた時だけであった。 第一次欲求というのは強い。どんなに不快でも眠気には勝てない。常に振動があって頭を打ったり座席から尻が浮いたところで、脂汗をかきながら眠ってしまう。そんな中だからこそ、自分が眠っていると強く意識する。自分の不快そうに眠っている姿も容易に想像できる。起きることができない状態から起きる理由がないという状態に変っていく。 七十時間後、朝のラッシュに少しだけ巻き込まれた末に、バスはジャカルタ。 私の頭の中は、多少、ネジが狂い始めていたのかも知れない。あんなに厳しかったバスの移動も終点に近づけば、少し残念な気になってきた。赤道を超え、さらにかせいでいく旅。私はそのまま、バスチケットを購入した。 そして、ジャワ島 バスステーションの端で洗濯をした後、バスを乗り継いだ。運転手の許可を得て、洗濯物を運転手の横で干させてもらった。八月十七日独立記念日が近づき、旗が至る所で見受けられる。ここ数日、何度も「俺は日本を許しているよ」といわれた。戦争責任。戸惑う。もし、責任者としての申し子ならば片腕を切り落とさなければならない。例えば、インドネシアで何をしたのか、何も教えてもらったことはない。どんな時代だったのか、自分で本等を読むまで知らなかった。知らないことに対して、「そんなこといわれてもねえ」と思ってしまうのは正直なところなのだが、無知は罪である、ということは何となく分かってきた。もうひとつ。例えばどの国でも「チノー」とか「チニー」とかいって中国人と間違えられて、馬鹿にされる。はじめ、「ノー、ジャパン」「ジャパニ」なんていちいち反論していた。それって、私自身、そう思っているから言い返していたに違いない。次第に何といわれてもいいや、って感覚に陥ってゆく。具体的被害にあいそうなら別かも知れないが、何人でもいいではないかという諦めに似た境地が訪れ始めた。素晴らしい奴はどこにだっているし、下らない奴もどこにだっていることを理解するには結構実感がいると思うし、できた奴や下らない奴がいるからこそ、面白いってことはなかなか分からないことではないだろうか。 夕暮れのドライブイン。賑やかであった。私はその中に静かに座り、人々の表情や情景を見ながらゆっくり飯を食っていた。ついつい出発時間を聞くのを忘れていた。バスが目の前を通りすぎた。私はまだ静かなままだった。今日から荷物のなくなる現実を受け入れなければならないのか?夕暮れの道は寂しい。 少なくとも、私は運転手横、最前列に座っていた。バスは軍艦マーチのテーマと共に、ライトをアップにして戻って来た。車掌は身を乗り出して、私を見つけると、「オー、コリアー」と叫んだ。 午前二時。ジャワの中部の主要都市マゲラン。バスの終点と知ったのは乗客が全員降りていった後だった。こうなったらジャワ島を抜けてバリまでいってやる、何て更にやけくそな気分になっていた。そこで登場したのが、自称天文学者ボビー。中年太りのインテリにしてホモセクシュアル。インドネシア各地を毛布と十数冊の書物と共に流浪している。国の奨学金で旧宗主国オランダにまで留学していたこともあるという。おまけに、ほぼ文無し。 「宇宙が二つあるという説の話はこれくらいにして、疲れただろうから、僕の肩を枕にして眠るといいよ」と優しく揺れるバスの中でいった。そう、興味深々で彼にしばらく同行することに急遽決定したのであった。そして、そうやら枕にされたのは私の肩のようであった。 ジャワの中部、スカンでバスを降り、夜が明けるまで彼の朝の講義をコーヒー一杯で聞いた後、彼の導きで山に入ってゆく。彼は太っているからか、徐々に遅れ始めた。宇宙を駆け巡る思想を持ちながら息を切らして歩いている男を何故か寂しく思った。インテリに完璧を求めるのも変なことだが、痩せ我慢して歩いて欲しいと思ってしまった。インテリは、穴があるからこそ突出している部分がある天才とは違い、完璧性が欲しかった。人は見栄だけでも結構やっていける筈だ。いい訳はよして、歩け。恥ずかながら命令口調で思ってしまった。せめて、優雅に歩いて欲しい。インテリなら。 村人が迎えてくれた。天文学者と村人との関係は分からなかったが知り合いのようであった。私は納屋で一週間ぶりに動かぬ大地の上で、巨木の香油の下、昼寝をした。天文学者は隣で持参の毛布で寝ていて危険ではあるが、生理的欲求を優先せざる得ない。熟睡は夢をもみせてくれることはなかった。 村。コルト。タンガー。バス。町。 村で、泊めさせてもらった家の子供に、持参の花火をした。 その農家には子供がいて、夜は当然電気はなくて、私は、そこで、その子供に、花火をしてあげた。 何故かフィルムのおまけに花火がついていたのだ。 花火は二本あった。その一本を驚かす為にライターで子供の前で火をつけた。 子供の目がすごい喜びになった。 十数秒の花火は真っ暗な田舎の家の土間で綺麗に一瞬を終えた。 子供の目の輝きをもう一回みたくて二本目に花火に火をつけようとしたら、子供は花火を隠してしまった。 大人が訳してくれた。子供が何をいったのか。 明日、ほかの子供達と一緒にみるためにとっておきます。と。 村で、泊めさせてもらった家のじいさんに、日本軍との壮絶な戦いをした湖のほとりに連れていってもらった。「俺と君の間には悲惨な過去があった。でも今は友達だ。握手しよう」と厳しい目をしたまま手を差し伸べられたので、私は手を出す。「この村にまでやってきたんですね。あなたがたは、直接、敵を見てきたんですね」といった。「敵国破れて、湖有り」と波のない静かな池。 殴られたほうは、孫の代まで伝え、殴ったほうは、教科書に一行。 ウノソボという町。夜、全寮制の身体障害者の学校へ招待され、のこのこ出掛ける。比較的軽度の子供たちが卓球をしている。 「かかってこい」私はラケットを握る。あまり容赦しない私、大人、外国人、という三要素が彼らの闘争心に火をつけたようだ。子供たち列を成す。私は変化球なしで、徹底的に彼らを叩きのめした。負けるのは失礼だから。真剣な彼らの眼差しに敬意を示し、スマシュ、はい次、スマッシュ、はい次。 中国人の家に泊めてもらっていたのだが、その前の道で万屋を営むマレー人がいた。幅二メートル奥行き一メートル程度の小屋には洗剤やらガムなどがぎっしり詰っていた。ある夜、小屋を隙間から覗くと、そのマレー人主がキョウツケの姿勢のまま眠っていた。中国人によると、彼の家はこれで、トイレはその中国人の家を拝借しているそうだ。そのあとで、「中国人が店を開くと(但し漢字は御法度)その前にすぐマレー人が屋台を開くのさ」と付け加えた。 海抜二千メートルのディエン高原に散歩に出掛けた。ボロブドゥールより古いチャンディ(寺院)が点在。空を見ながら歩いていると泥沼に足をつっこみ、抜くのに苦労する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.09 17:19:42
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