セヌッティのこと
何を隠そう、ワタシは高校生時代は陸上競技の中長距離をしていた。
前提として兵庫県は駅伝大国といわれており、報徳学園西脇工業が全国で優勝したりしているほどのハイレベルな県であった。
ワタシが高校に入学する前の年まで、学校では駅伝の人数(7人)が足りずに短距離やサッカー部等他の部から応援よよこしてもらっていた寄せ集めよわっちいいチームであった。
ワタシが入学した年に、県大会には絶対出てやると決めた3年生の先輩Mさんがいた。
彼は新入生の体育の1500メートル走のタイムをリストアップし、一人ずつ説得に回った。
そうして入部してきたのがワタシを含めて4人。長距離の先輩3人に合わせてかろうじて7人丁度のメンバーが揃ったのであった。
県大会に出るには市の大会に30校中7位か8位ぐらいにまではいらなければならなかった。
そうして先輩Mの怒号怒涛の末、我々は前年25位程度からついに4位に入ったのであった。
翌年、ワタシは長距離のキャプテンとなり、昨年同様に厳しい練習を行い、市大会では昨年と同様に4位に入った。
そして丹波篠山で行われた県大会。昨年は40校中32位であった。
ここで登場するのがセヌッティである。彼は前日から胃腸の調子を落とし、青ざめた顔をしていた。我々の戦略は、花の1区といわれる10キロコースだけには立派に県大会でも
通用する先輩を採用、2区から7区までいかにその順位をキープできるかであった。
1区の先輩のみが県でも通用する力を持っており、実際あとの6人はトラック競技で市の予選で落ち、市の決勝でさえでることができない実力であった。
我々はその3年の先輩を1区に、ワタシの同期(2年)は4人、しかしセヌッティの調子がすごく悪いので彼を4区8キロから、外しアンカーの7区5キロにした。5区3キロでも良かったのであるが、ここはここで短距離並の走りが必要であったので採用せず。
さて実際の試合は、1区を12位で通過、その後どんどん抜かされていった。ワタシも3区8キロを順調に2人抜かされたのであった。走り終えて、ゴールの篠山城内にある高校のグランドへ向かった。報徳、西脇と入ってきた。5位ぐらいまでは県が違えば全国大会に行けるタイムで帰ってくる。
セヌッティがグランドに帰ってきた。ワタシは愕然とした。このまま抜かれていったら1区の12位からおおよそ20~25位で入ってくると思ったのに、何と12位で帰ってきたのであった。
なんと、セヌッティは5人ごぼうヌキして、昨年のタイムなら区間賞を取るスゲエタイムで帰ってきたのであった。体調崩した後異常に調子がよくなったらしいのだ。区間5位であった。
セヌッティのゴールに我々先発隊6人のメンバーは走って迎えに行った。
セヌッティに感動の鼻水が垂れていた。
その時、完全系の虹が出たのであった。
我々にとっては勝利の虹であった。
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