いよいよ、このシリーズも最後である。私を含め、アクセス数とコメントの多さを見ると、皆さん子供のように、ウンチ、ハナクソ、耳クソ系の話がお好きなことが実証された。
さて、目やに、目くそであるが、これは、ハナクソに比べて話題性が低く、耳クソに比べて地位が低い。目くそハナクソを笑うといった50歩100歩という意味の諺もあるが、よく考えれば、ハナクソが目くそを笑っている訳ではないので、多少はめくその方がエライと考えられる。いかんせん、目糞は量が少ないのが一番の問題である。ビョーキにならないと大量に取れないのである。
涙は、上まぶたの内側にある涙腺の管を通って出てくるわけだが、涙は、目に入ったゴミを洗い流し、目がしらに寄せる。これが乾燥したものが、簡単にいうと、目やに(目くそ)である。泣かなくても、涙は悲しいかな出ているのである。実は、その後、目がしらに寄せられた涙は、また管を通り、鼻への通路へ行ってしまうのである。そして、鼻の中へと流れてゆく。これが鼻の中をで常に潤わせている。吸気中の塵やほこり、皮脂腺からの分泌物、そして粘液が混合し乾燥したものが鼻くそとなるわけだ。簡素にいえば、はなくそはめくその熟れの果てなのであり、ルーツは同じで親戚なのである。仲良くしなければならないのである。
目くそには残念ながらウハウハエログロナンセンス悲話はないのである。年をとってきて20代よりは涙もろくなったかもしれないが、さすがに子供の頃はよく泣いた。おまけに純朴であった。泣きながら歩いていると、横の例の東大に行った友達が、グリコをくれて「ほら、この箱に書いているのみてみ。明日強くなるって書いてるやろ」私は本気で、明日、強くなると思ったのであった。勿論、科学者志望であったとはいえ、グリコーゲンが元気の元とは知らなかったが、公園横の、階段での夕刻の話であった。
それにしても、目糞、ハナクソをほじくる行為は見苦しいもので、例えば夫婦生活でも恋人生活でもそういうのはタブーなのであるが、(私の場合、屁もタブー)、1人密かにそのグルーミングする行為は神聖な行為でもあるのだ。結局、汚いところをきれいにするには自分が汚くなる覚悟で汚い部分に臨まなければならないし、何かを改善するためにはうまくいってないところまで入り込んで多くのエネルギーを注ぎ、解決していかなければならない、ということなのである。自分が手を汚さずに、楽をしてすんなり解決、なんてことは実際にはあまりない、それはただの奇麗事、戯言なのである。「自ら進んでトイレ掃除をする行為」といった美しい行為なのである。(ちなみに結婚時代も独身時代も私はトイレ掃除大臣でもある)
以上、シリーズ終了サプリメント大王の真言を終える。