何度も書いていることなんだが、敢えて、誰も覚えてらっしゃらないので、また書くことにした。当時、といっても、ほんの学生時代のことなので、数年から十数年前のことである。
我我、当時、クラブ4人組は、インドのニューデリーの日本人の溜まり場だったはニーゲストハウスに集合だった。後輩2人は、タイ経由でインドに入ったのであるが、私と同輩は、神戸から上海まで船、そこから、中国を抜け、チベット、ネパール経由の陸路でインドに入ったのであった。
そういうわけで、同輩は、陸路をいいことに、飛行機では運べないEPIガスを大量に運んでいたのであった。同輩と私は上海で別れたのであるが、その後、ネパールのカトマンドゥの道端で偶然出会い、二人でデリーを目指すことにしたのである。というか、デリーでの4人組集合日には、未だ我々はカトマンドゥにおり、インドビザをとるために、インド大使館に並んでいるのであった。
宿からインド大使館の300メートルの距離は、何故だか、チャラスのせいで、もはやギンギン状態だったので、タクシーで行ったということは、まあ、時効なので、ここで明言しておいてもよかろう。
まあ、そんな前置きはどうでもいいといわざるを得ないのであるが、ネパールからバスで1晩、遂に、インドに入ったのであるが、金がない、正確に言うとインドルピーがない。
まあ、ないないといいながらも、モノを国境で売って、バス代を稼ぎ、ゴラクプルからラクナウに出てきた。駅で、デリー行きの列車を待っていたが、腹が減ったので、ここで、インドらしくEPIガスで、ラーメン作ろうかということになり、我々は駅に座り込み、マギーラーメンを買って来て、ラーメンを食ったのである。
勿論、皿はないので、コッフェルのまま交代で喰ったのである。我々は、用意周到にもコッフェルをも日本より運んで来ていたのである。
ラーメンは旨かったが、そのあとの出来事があった。
目の見えない男が杖をついて、うろうろ歩いていたのである。男は、スティービーワンダーのように顔を上向き加減にして笑っていた。
そして、角をみつけたと思うと、おもむろにしゃがんだ。しゃがんだのは、ホームの端であった。角というのは、その先は線路なので、ホームが終わっていただけであった。
しゃがんだのと同時に、ズボンもズリオとしていた。そして、おもむろにブリブリブリとフンコをし始めた。
少しのことでは驚かないインド人もさすがにびびった!
我々もびびった。以上、インドのポエチックな話である。
残り、画像余り。
なんだか、インドは日本人にも不思議なところで、2回目以降になると、急に日本人の中で先輩になってしまう雰囲気が当時にはあった。18歳、初めてインドに行った時とは、違い、やたら、勝手に日本人が私を見かけては、声をかけてきて、ついてくるという現象に2回目の訪問以降なってしまったのであった。
大学5年のとき、インドで、安宿の屋上でぼーっとしてたら、若い奴らばかりの中に、一人だけ雰囲気の違う人が居て、やはり、20年前からインドに来ていた、40歳の男だった。しかし、彼は少し若者と話をしたいと思いながらも、自分から積極的に声を掛けることができず、私とか、インド数回目ぐらいの人に少し声をかけては、少しつまらないガンジャとチャラスの違い、チャラスとハシシの違いなんかを講釈垂れて、まあ、ボクも嫌いじゃないからといいながら、誰かイイコトしてないかなあ、仲間に入りたいなあって感じの雰囲気でウロウロしていたのであった。初めてインドに来た人たちは、コレが、例のアレですか!という新鮮な驚きと、何故、私をグルにするのだという鬱陶しさの中で、私は、その頃、悶々としていたように記憶する。
そうして、社会人になってインドに行く、バンコクからの飛行機の中、日本人はじめて旅行者は、飛行機の中で、同士を見つけ、気がつけば、皆が皆を声を掛け合っていたのだが、15人ぐらいいた日本人の中で、とうとう、私だけには声がかからなかった。私も、声をかけるでないぞジャリたちよという雰囲気を醸し出していたことは確かなのだが、もはや、私は孤高の人となっていた、30歳だったのであった。
といいつつ、彼らは順調にタクシーチケトを買い、タクシーに分乗してしないへと向かったが、私は余裕かまして、タクシーチケットも買わず、一人、タクシーに乗り、その後、インド初めてです的に料金で揉めに揉め、運転手の首を絞め、5ドルぐらいを投げつけ、途中の道で走っている中でドアを開けて降りたのであった。何度きても、恐るべし、インドであった。ギャッフン。