ポルポトら
この学校で1万人が虐殺された。
学生の頃の記憶を辿りながら。
私有財産の強制的な没収、貨幣制度の廃止、電話、電報、郵便、ラジオ等の連絡機関の廃止、バス・鉄道・飛行機等の移動手段の廃止、全ての教育機関の廃止と書物の焼却、仏教の禁止、寺や像の破壊、民族音楽や古典舞踊の禁止、都市市民の農村部への強制移住、家族のつながりは無益とし、5歳以上の子供は全て親から隔離、自由恋愛の禁止、無作為の相手との強制的な結婚、企業の廃止、休日の廃止・・・
喋るな、といっても、皆、ここでは静かになる。誰も、何も話することができない。
ほんのこの前、1975年から3,4年間の出来事である。これは人間ではなくなってしまう。
このことを本で読んだとき、体が凍りついた阪急電車の中で立ち尽くした私自身の記憶も忘れまい。
この3,4年の間に、国家の人口の3分の1とも4分の1ともいう国民たちが、殺された。
学生時代、ベトナム本やカンボジア本を読みまくった、読みまくったとは言いすぎだが、行ってみたら、確かに、心なしか、若い国なのだ。街を歩く老人が少ないのだ。それはすぐに分かる。一時期女の国になったカンボジアといわれたが、さすがに、外では、男性も多い。あれから30年。
大学の先生、資産家、ノンノル政権への協力者、医者、教師、弁護士、インテリの仕事についていた人、留学したことのある人、すべてを許そう、そういって呼びかけに応じてのこのこ過去の思想や身分を明かした人は二度と帰ってこなかった。
ポルポト自身フランスに留学していて、インテリや集団の恐ろしさを知っていたのであろう。徹底的に弾圧、というより殺した。
その後、めがねをかけている者、手が白いもの、美男子美女、そういった身体的な特徴のある人も殺し始めた。勿論、障害者はいの一番に殺された。
そしてスタージュと同じく、密告を奨励、お互い誰も信用させない制度を確立させ、愚痴をいったりした人間を密告させて殺した。
ポルポトの兵士になれるのは13歳以下であった。洗脳しやすいからに過ぎない。
国際世論は、鎖国のため、ほとんど気がつかなかったし、そんな行為が行われるというのは、想像外だったのであろう。現実味がなさ過ぎた。それに、外の者は誰も」これだけの虐殺に意味が見出せないからだ。勿論、果敢なジャーナリストは、やはり・・・殺された。ほんの30年前の話である。
1979年、ポルポトが山岳地帯に逃げ去ったとき、国民の85パーセントが14歳以下になっていたのである。
でも、ポルポトの出現を許したのは、やはり、アメリカであった。CIAであった。
2008年カンボジア旅行
カンボジア到着
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