1回目だか2回目のとき、函館から札幌に行くことになってて、列車で行き、途中大沼公園というところを抜けたとき、
線路の両脇が湖で、えらい風光明媚やなあ、日本にもこんな自然あるねんな、と感心したことがある。多分15年ぐらい前だと思う。
こんなところで育ったらどうなったんだろう、いやどうもなってないだろう。そういえば、小学生の入学式って写真の中でしか覚えてないなあ。直ぐ近くの家の子(のちに東大に行く)と妹と友達の妹と4人で桜の木の下で写真を撮り、学校では講堂に集められ、クラスの写真では、生徒は前、保護者は後ろなのに、何故か私だけ母の隣に写っていた。私は大きくもないのに生徒の一番後ろの(上の)段の一番端に並び、保護者から溢れた母が、一歩下の生徒の段に降りてきてしまった母、何だか、自分が寄り添っているようで、とても恥ずかしい気がした。
それで、その数日後、初めての授業が国語の授業で、「あさ、あさ、あかるいあさ」と書いてあった。その前のページ(表紙を開けたページ)には、朝日のグラデーションがあって、唇の分厚い担任のトクオヨウコ先生が、何人かに、何色がありますかと質問をした。当てないでくれ、皆の前で発表するのが恥ずかしい、そう思った。
学級委員長というのは、高校卒業まで一貫して一度もやったことはないけれど、日直(日番)というのは回ってくるので仕方なくやったように思う。ちょっと早く学校に来て、鍵を職員室に取りに行ったり、授業の合間に黒板に書かれた文字を消して、黒板けしを2つ持って窓からパンパンと叩き、思いっきりチョークを吸い込む係である。ちょと一人前になった気になるのかも知れないが、1日交代でみんなやるので、特別感はなかったように思う。給食係も順番に回ってくるが、エプロンするのが嫌でエプロンをしなくてよい唯一の牛乳係りというのをやったが、いつも2人で競争していたため、ある日、コケテ、校舎の脇で牛乳瓶を思いっきり割った。牛乳の白い水溜りができた。学級委員長はやってないが、落し物係はやった。ほとんどが鉛筆であった。当時シャーペンが出てくるのは小学校4年を待たねばならず、当時、それでも100円シャーペンなどなく、安いものでも500円、普通1000円はする代物で、おいそれと、ガキが買えるものではないのだが、小学校4年のときに、パーカーの万年筆とシャーペンをおじいちゃんに貰ったのだ。おじいちゃんと風呂に入ったのはそれが最後というか、1度だけだったかも知れない(おじいちゃんは田舎に住んでいたので)。そのときおじいちゃんは、湯船で「
パーカー45、ゆうてみ」と暗誦させられたのであった。まあそれまでは、鉛筆であり、トンボか三菱であり、筆箱は、像が踏んでも壊れないシリーズで、いじめられてるわけでもないのに、筆箱を踏まれて遊ばれた。(自分でもジャンプして筆箱に飛び乗って、やっぱ
象が踏んでも壊れないだけあるなと
毎回感心していた。鉛筆の芯を大切にする子は、鉛筆にピカピカのシルバーのキャップをかぶせていた。鉛筆には反対側に消しゴムのついたものもあったが、消しゴムはいまだ不朽のプラスチック消しゴムに加え、ノートごと穴がある馬力のある砂消しゴムも当時の大人気であった。勿論、消しゴムのカスを固めてこねくり回し、再度消しゴムにしたという貧乏だか暇だかねばねば消しゴムが面白かったのだか、よく分からないが、机に空いた穴に埋めたりもした。小学校1年のときの机は、まだコーティングされておらず、ざらざらのままで、絶対に必要だったのが下敷きであり、下敷きは、プラスチックでできており、夏にはあおぐものであった。おでことかほほに平行に下敷きをずらしていくと、下敷きに汗が溜まるというシステムであった。下敷きは、最後、ずっと、何種類か持ち続けて(未使用のまま)、インドに送って、小学生に使ってもらうことになった。鉛筆以外にも、色鉛筆があって、一人だけクーパーペンシルだったかなんかの50色ぐらいのを持ってきて、オメすげえなとカリパチされて、1日で25色になっていたような気がする。もしかして、クーパーだったかなんだか鉛筆自体が木の部分がなくて全てが色鉛筆だった機種もあったように思うが、それはもっと後年かもしれない。家では鉛筆削りで、ナイフの時代は終わっていた。電動のものも普及してきていたが、無意味に鉛筆が削れ過ぎてしまうので、やっぱり手動のものがよかった。携帯用の小さな鉛筆削りは、シルバーのは見栄え良かったが、削れるのは安っぽいプラスチックのやつであった。単純に刃が磨げてただけだたんだろうけど、それでもでかいぐるぐるハンドルを回す鉛筆削りには、その美しさ、歯が立たなかったな。
あかん、何の話をしているんだ・・・・ランドセルは赤と黒しかなかったぞ。