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5年前から行こうとしていた補陀洛寺に遂にやってきた、という話だ。4世紀にインドから渡来した裸形(らぎょう)上人による開祖といわれているが・・・。(洛とか落とか) 南海の彼方に補陀落浄土(南の果てにある観音菩薩の住む浄土)があり、補陀落を目指して船出する「補陀落渡海」。即身仏のようなものか。小さな船に修行僧が一人で乗り込み、外側から釘を打ち付けてもらい、窓のないまま波間を漂い…ひたすらお経を読んで、結局は沈んでゆく。。。その船は一人乗りのもので、乗り込んだら外から釘で打ちつけてもらっているので外には出られない。勿論ほとんどが餓死か溺死。壮絶やな。信仰とはなんだろうか。(なんの本で読んだのだろうか・・・) しかし、たまに、九州や沖縄に着地し、ここが、浄土か、いやまだ生きている、みたいなこともあったと書かれていたような。 那智の浜から、生きたまま観音の浄土、補陀落浄土に往生しようとする宗教行為。と説明があった。うん、俺の覚えている通りの捨て身行だ。 ウキペディアより抜粋、補陀落とは。 1. 補陀落(ふだらく)は、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の霊場山。その山の形状は八角形だそうだ。インドの南端の海岸にあるらしい。 2. 「補陀落」は、サンスクリット語(梵語)のポータラカ (Potalaka) の音訳。義訳は光明山、海島山、小花樹山等。海島山も? 3. 八角形の山については、興福寺の南円堂の円形はこれを模しているらしい。 4. 玄奘は『大唐西域記』補陀落山は南インドのマラヤ山の東にあると記され(マラヤ山はケーララ州のカルダモン丘陵)、タミル・ナードゥ州南端のポディイル山とか、スリランカとかかも知れないと。 5. 観音信仰が隆盛になると霊地として「補陀落」の名称が各地で広まった。日本でも熊野や日光が補陀落になぞらえられ、信仰を集めた。なお、日光という地名は、補陀落~二荒(ふたら)~二荒(にこう)~日光となったという説もある。中世には、観音信仰に基づき、熊野灘や足摺岬などから小船に乗って補陀落を目指す、「補陀落渡海」が盛んに行われた。 6. チベットの首都、ラサにあるポタラ宮の名も、サンスクリット語の「ポータラカ」に由来する。 何と世界遺産の一環なのか。 出た、四方を鳥居で囲まれた窓のない船。 渡っていった人々。 ウキペディアより抜粋、補陀落渡海とは。 1. 補陀落渡海(ふだらくとかい)は、日本の中世において行われた、自発的な捨身を行って民衆を先導する捨身行の形態。南方に臨む海岸から行者が渡海船に乗り込み、そのまま沖に出るというものである。その後、伴走船が沖まで曳航し、綱を切って見送る。場合によってはさらに108の石を身体に巻き付けて、行者の生還を防止する。ただし江戸時代には、既に死んでいる人物の遺体(補陀洛山寺の住職の事例が知られている)を渡海船に乗せて水葬で葬るという形に変化する。 (そうなのか) 2. 最も有名なものは紀伊(和歌山県)の那智勝浦における補陀落渡海で、『熊野年代記』によると、868年から1722年の間に20回実施されたという。この他、足摺岬、室戸岬、那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。熊野那智での渡海の場合は、原則として補陀洛山寺の住職が渡海行の主体であった。この寺からか! 3. 補陀落渡海に使う渡海船についての史料は少ないが、那智参詣曼荼羅には補陀落渡海が描かれており、補陀洛山寺には復元された渡海船が置かれている。これによると、一般的な貨客のための渡海船とは異なり、和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に4つの鳥居が建てられている。鳥居の代わりに門を模したものを付加する場合もあり、この場合は門のそれぞれに「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」との名称がある。箱の中には30日分の食物や水とともに行者が乗り込むが、この箱は船室とは異なり、行者が中へ入ると入り口は板などで塞がれ、箱が壊れない限りそこから出ることは無い。一般には艪、櫂なども含めて航行のための道具は備えていない。これは、生還することなく遺骸となっても戻ってこないことが浄土へ至った証との思想に基いている。沖合まで伴走船が曳航した後、人々が海流に流されて漂流していく船を見送る。 4. 浄土信仰が民間でも盛んとなった平安後期から、民衆を浄土へ先導するためとして渡海が多く行われるようになった。渡海は概ね黒潮が洗う本州の南岸地域で行われた。特に南紀・熊野一帯は、それより以前から密教の聖地、さらに遡って記紀の神話も伝わる重層的な信仰の場である。半数がここから出発したらしい。 5. 本州の南岸地域の黒潮は地球規模でも強い海流の1つであり、この流れに漂流するとかなりの確率でそのまま日本列島の東側の太平洋に流されていき、戻ってくることがない。 ごくまれに南下する親潮により南への循環流に乗り、再び日本の沿岸へ漂着することがあった模様。漂着した気持ちはどうだったんだろうか。 6. 『琉球国由来記』によれば、咸淳年間(1265年 - 1274年)に禅鑑なる禅師が小那覇港に流れ着いた。禅鑑は補陀落僧であるとだけ言って詳しいことは分からなかったが、時の英祖王は禅鑑の徳を重んじ浦添城の西に補陀落山極楽寺を建立した。「琉球国諸寺旧記序」は、これが琉球における仏教のはじめとしている。また琉球に漂着した日秀は、現地で熊野信仰及び真言宗の布教活動を行ったり、金武町に金武観音寺を建立した。やはり、沖縄に来てしまった人もいたのか。 この僧侶も行かれるのか? ここから入り、釘を打ってもらうのか。 平安前期の貞観十年(868)の慶龍上人から江戸中期の亨保七年(1722)の宥照(ゆうしょう)上人まで25人。出航はだいたい11月。 平安時代に5人。鎌倉時代に1人。室町時代に12人(そのうち11人が戦国時代)。安土桃山時代に1人。江戸時代に6人。 うわ、海に浮いている。 賽銭箱は、なんでしょう、持っていきませんよね。 井上靖の短編集「補陀落渡海記」では、以下のような事件を題材にしている。 補陀洛山寺の代々の住職には、61歳の11月に補陀落渡海を行なう習慣があった。戦国時代の住職の金光坊は、まだ渡海する気になれないのに周囲からのプレッシャーで渡海せざるをえなくなり、渡海することを決める。それで船出したものの、途中で命が惜しくなり、屋形を破り、船から逃げだして、小島に上がってしまった。役人はケシカラン!と、金光坊を海に突き落として殺してしまった。 この件で、補陀洛山寺の住職が死亡した場合にあたかも生きているかのように扱って、渡海船に載せて水葬するようになり、生者の補陀落渡海はなくなったとのことである。という物語だ。 しかし、壮絶やなあ。こりゃ気になるわ。 2020.10 奈良南部、和歌山GO TO DRIVE始めました。 明日香村 マラ石 石舞台古墳 酒船石遺跡゙ 明日香村 飛鳥寺 亀石 キトラ古墳 五條市 柿博物館 十津川村 谷瀬の吊橋 奈良和歌山ドライブ 十津川村 玉置神社 奈良南部の流れ 奈良和歌山ドライブ 瀞峡 三県挟 十津川熊野新宮 田辺市 熊野本宮大社 熊野速玉大社とちょとだけ熊野本宮大社 新宮市 神倉神社 新宮市 アフター神倉神社 那智勝浦 民泊 那智勝浦 補陀洛寺 那智勝浦 那智の滝 熊野那智大社 那智勝浦 那智の滝2 那智勝浦 日本最短 ぶつぶつ川 太地町の鯨 太地 落合選手宅 串本 橋杭岩 エルトゥールル号の地、串本 古座川一枚岩 奈良和歌山ドライブ 古座川 拝の滝 奈良和歌山ドライブ 古座川 ハッチョウトンボ すさみ えびとかにだけ1 えびとかにだけスサミ水族館2 すさみエビと蟹だけ3で終わり 白浜 安久川千躰仏群 白浜 三段壁・千畳敷 白浜 円月島から歓喜神社経由帰宅 白浜 晒し首層 三段壁 ホテル川久 帰宅 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
> 和船の上に入母屋造りの箱が置かれ、その四方に4つの鳥居が建てられている。
補陀落渡海の話は知っていましたが、補陀落舟が鳥居に囲まれているとは… 神仏習合の影響なんですかねぇ? 補陀落山は天台宗。山形の即身仏の多くは真言密教系とか。 > なお、日光という地名は、補陀落~二荒(ふたら)~二荒(にこう)~日光となったという説もある。 日光・二荒山神社の御神体は男体山。日光にあるお寺は、天台宗の輪王寺。 (2020.10.13 21:37:02)
a.n. otherさんへ
そうですよね、それも、昔からそうだったんでしょうかねえ。 山形新潟、そうですよね。 男体山、そうなると、日光・日光山神社になっちゃいますね (2020.10.14 19:02:53) |
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