悪い人になりたい
先日のこと。車の中で、大人になったら何になりたい?という話題になった。ゆっぴーったら「悪い人になりたい。」だって。いかにも親の反応を試そうという感じの表情。私は「あら、悪い人になりたいの?ゆっぴーが悪い人になったら、お母さんは悲しいなぁ~」と言ってしまった。運転していた夫のリチャード君は、一瞬間をおいて、こう言った。「大人になって何になるかは、自分で決めること。ゆっぴーが悪い人になるというなら、それは自分で選ぶこと。お父さんにもお母さんにも、ゆっぴーの人生をかわりにきめてあげるわけにはいかない。でも、悪い人になれば、それなりの結果が伴うことを覚えときなさい。たとえば、警察につかまるとか、刑務所に入らないといけないとか、そういうことだよ。」そうそう、結局は、ゆっぴー自身の人生だものね。我が夫ながら、すごいと思う。彼は、「境界線」の本を読んだわけでもないのに、きちんとバウンダリーが身についていて、実践できてるもんなぁ。自分が「悪い人」になることで、周りの人が悲しむことになる、ということは、もちろん知っておかないといけないこと。でも、それは誰のせいでもなく、自分の責任で、自分の人生は自分で選択していかないといけないことを伝えることも、大切なことだ。そして、親は、子どもの人生をコントロールする気はないよ、ということも、やっぱり伝えておかないといけないことだった。子どもが「悪い人になりたい」なんて言う時は、それを伝える最適のチャンスだったということだ。実は、数週間前、夫とこの話題について話していたところだった。「親の影響って、やっぱり大きいなぁと思う」という私に、彼いわく、「でも、親がどんなにがんばっても、親には子どもの人生は決められない。ある程度の年齢まで、親はベストを尽くすべきだけど、それ以降は子ども自身の責任。それ以上は神様にお任せするしかない」。確かにね、同じ親(しかも素晴らしい親)に育てられているにも関わらず、リチャード君の8人のきょうだいの中には、いろんな人がいるんです。どうしてこうなってしまうんだろう、とか自分の子どもがあんな風になったら、嫌だなぁって思うけれど、結局は子ども自身の人生だから・・・そこは割り切って考えないと。まじめな話、フィリピンって文化的にこういった「境界線」が存在してないという感じがするんです。だから「恩義」というのが、すごく大切な文化の核のようになってる。それは、いい所もあるけれど、でも、そのために政治から何からどうしようもない状態になってるし。みんな自分の行為には責任を取らないで、言い訳するのが普通になってるし。だらだらと境界線のない生活を続けることで、自分の首(や他人の首)を閉めてる人って、少なくないもんなぁ・・。フィリピンの寛容さっていうのは、すばらしい所もあるんだけれど、やっぱりそういうネガティブな面は、子どもには学んでほしくないと思うわけです。せめて、日々バウンダリーを実践していくのが、今私が親としてできること、という所でしょうか。