チャコさん流子育て(2)~家庭に笑いを!駄洒落でまなぶ言葉の感覚~
チャコさん(私の母)は、大阪のど真ん中で生まれ育った大阪の人です。関西人は普通にしゃべっていても漫才みたい、とよく言われますが、うちの母もそうで、私たちもいつも駄洒落や洒落を聞いて育ちました。「しょ~もな~」とか当時は「シラ~」とか最近なら「さぶ~」とか世間では駄洒落には冷た~い視線が向けられるものですが、そんなわけで、うちの中では、いつもしょーもない駄洒落が普通に飛び交っていました。私は、中学生だったか高校生だったある日、そういうだじゃれに慣れ親しんだことがいかに大切だったか、ということに気づいて、母にそう言いました。「お母さん、古典を勉強していて、昔は、洒落を言えることが教養の一つだったって、わかったわ。源氏物語にしても、百人一首のうたを読んでいても、昔の人って、ここぞと言うところでさらっと機転を利かせた答えを返しているでしょ?あれって、よく考えてみたら、洒落やんか。枕詞とか、そういうのも、洒落だし。現代の人は、しゃれを聞くと、しょーもなーとかしら~とか言うけれど、実は洒落って大事な文化やったんやね~。」すると母は、まじめに、こう言いました。「そうよ。私は子どもができた時に、駄洒落で教育しよう、って決心して、意識して育てたんだから。」どういう発想で駄洒落で教育しようと決めたのかは、母には聞きませんでしたが、たぶん、母の構想は成功したのでしょう。おかげで私は「ことば」に興味を持って育ちましたし、妹は短大で国文学を専攻しました。「国文学」というのは、なんとなく妹にはミスマッチな気がしていたのですが、後で聞いたら、実は妹は、中学の百人一首クイーンでもあったのだそうです。弟たちは理系の学部に進みましたが、下の弟は「落語研究会」に所属していました。しゃれ、だじゃれって何だろうと考えると、同音異義語から成り立っている場合が多いと思います。つまり同じ音で、違う意味の言葉(「蛙」と「帰る」、「雨」と「飴」)あるいは、音が近いけれど、違う意味の言葉(「飴」と「あめぇ(甘い)」)がパっと連想できて、その意味の落差を瞬間的に使えるか、ということですから、これも普段からやっていないと使えない、一つの技術ですよね。英語のスピーチなどを聞いていても、気の利いたジョークを使って、聴衆を楽しませることも一つの大事な要素になっています。国際ミス・コンテストなどでも、最終インタビューで、ただ忠実に質問に答えるよりも、その場に合ったウィットを利かせた答えをする人の方が高い評価をもらえるようです。いずれにせよ、まずはそれも家庭から。普段から洒落のある生活をしていると、言葉の感覚が育つ上、どんな駄洒落でも、一緒に笑える親子関係というのは、それ自体、精神的にも良いので、一石二鳥。それに、もうすぐ日本も夏本番だし、寒い駄洒落で1度か2度、下がるのも悪くないかもしれませんね。