内田先生かく語りき46
「内田樹の研究室」の内田先生が日々つづる言葉のなかで、自分にヒットするお言葉をホームページに残しておきます。最近は池田香代子さんや、関さんや、雨宮さんなどの言葉も取り入れています。(池田香代子さんは☆で、関さんは△で、雨宮さんは○で、池田信夫さんは▲、高野さんは■で、金子先生は★、田原さんは#、湯浅さんは〇、印鑰さんは@、櫻井さんは*、西加奈子さんは♪で区別します)・安倍政治を総括する・選挙と公約・無作法と批評性・徒然草 訳者あとがき・勇気について・病と癒しの物語『鬼滅の刃』の構造分析・「アウトサイダー」についての個人的な思い出とささやかな感想・コロナ後の世界 ・格差について・『コロナ後の世界』まえがき・紀伊田辺聖地巡礼の旅・成長と統治コスト・『日本習合論』中国語版序文・日本のイデオクラシー・後手に回る政治・倉吉の汽水空港でこんな話をした。(目次全文はここ)(その46):『安倍政治を総括する』を追記********************************************************************2022-09-01 安倍政治を総括するより この10年間で日本の国力は劇的に衰えた。 経済力や学術的発信力だけではない。報道の自由度、ジェンダーギャップ指数、教育への公的支出の対GDP比ランキングなどは「先進度」の指標だが、そのほとんどで日本は先進国最下位が久しく定位置になっている。 だが、「国力が衰えている」という国民にとって死活的に重要な事実そのものが(報道の自由度の低さゆえに)適切に報道されていない。安倍時代が残した最大の負の遺産は「国力が衰微しているという事実が隠蔽されている」ということだろう。 国力はさまざまなチャートでの世界ランキングによって近似的には知られる。1995年世界のGDPで日本は17・6%だったが、現在は5.6%である。1989年の時価総額上位50社のうち日本企業は32社だったが、現在は1社。経済力における日本の没落は顕著である。だが、日本のメディアはこの経年変化についてはできるだけ触れないようにしている。だから、多くの国民はこの事実そのものを知らないか、軽視している。それどころか、政権支持者たちは安倍政権下でアベノミクスが成功し、外交はみごとな成果を上げ、日本は世界的強国であるという「妄想」のうちに安んじている。 安倍時代における支配的なイデオロギーは新自由主義であった(今もそうである)。すべての組織は株式会社のような上意下達組織でなければならない。「選択と集中」原理に基づき、生産性の高いセクターに資源を集中し、生産性の低い国民はそれにふさわしい貧困と無権利状態を甘受すべきだ。そう信じる人々たちが法案を作り、メディアの論調を導いて来た。 その結果がこの没落である。だが、誰も非を認めない。すべては「成功」したことになっている。それは、政権与党が選挙に勝ち続けたからである。安倍元首相は6回の選挙に勝利した。しばしば圧勝した。それは「国民の過半は安倍政権が適切な政策を行ってきたと判断した」ことを証し立てていると政府は強弁した。 たしかに株式会社ではトップに全権が与えられる。トップのアジェンダに同意する社員が重用され、反対する社員ははじき出される。それが許されるのは、経営の適否についてはただちにマーケットが過たず判定を下すと信じられているからである。「マーケットは間違えない」というのはビジネスマンの揺らぐことのない信仰である。社内的にどれほど独裁的な権力をふるう経営者であっても、収益が減り、株価が下がれば、ただちに退場を命じられる。 国の場合であれば「国際社会における地位」が株価に相当するだろう。経済力、地政学的プレゼンス、危機管理能力、文化的発信力などで国力は表示される。その点で言えば「日本株式会社の株価」は下落を続けている。しかし、安倍政権下で経営者は交代させられなった。もし、経営が失敗し、株価が急落しているにもかかわらず、経営者が「すべては成功している」と言い続け、それを信じた従業員たちの「人気投票」で経営者がその座にとどまりつづけている株式会社があったとすれば(ないが)、それが今の日本である。もう少し見てみましょう。 国の場合であれば「国際社会における地位」が株価に相当するだろう。経済力、地政学的プレゼンス、危機管理能力、文化的発信力などで国力は表示される。その点で言えば「日本株式会社の株価」は下落を続けている。しかし、安倍政権下で経営者は交代させられなった。もし、経営が失敗し、株価が急落しているにもかかわらず、経営者が「すべては成功している」と言い続け、それを信じた従業員たちの「人気投票」で経営者がその座にとどまりつづけている株式会社があったとすれば(ないが)、それが今の日本である。 新自由主義者たちは「マーケットは間違えない」と言い張るが、彼らが「マーケット」と言っているのは国際社会における評価のことではなく、選挙結果のことなのである。選挙で多数派を占めれば、それはすべての政策が正しかったということなのだと彼らは言い張る。 だが、選挙での得票の多寡と政策の適否の間には相関はない。亡国的政策に国民が喝采を送り、国民の福利を配慮した政策に国民が渋面をつくるというような事例は枚挙にいとまがない。政策の適否を考量する基準は国民の「気分」ではなく、客観的的な「指標」であるべきなのだが、安倍政権下でこの常識は覆された。 決して非を認めないこと。批判に一切譲歩しないこと。すべての政策は成功していると言い張ること。その言葉を有権者の20%が(疑心を抱きつつも)信じてくれたら、棄権率が50%を超える選挙では勝ち続けることができる。 安倍政権が最終的に終わったのはパンデミック対策に失敗したからである。人間相手なら「感染症対策に政府は大成功している」と言って騙すことはできるが、ウイルスに嘘は通じない。科学的に適切な対策をとる以外に感染を抑制する手立てはない。 安倍政権下で政権担当者たちは「成功すること」と「成功しているように見えること」は同じことだと本気で信じ始めていた。だから、「どうすれば感染を抑えられるか」よりも、「どうすれば感染対策が成功しているように見えるか」ばかりを気づかった。東京五輪の強行に際しても、「感染症が効果的に抑制されているように見せる」ことが優先された。それを有権者が信じるなら、それ以上のことをする必要はないと思っていたのだ。今の岸田政権もたぶんそう思っている。 パンデミックについても、気候変動についても、東アジアの地政学的安定についても、人口減少についても、トランス・ナショナルな危機に対してこの10年間日本はついに一度も国際社会に対してついに指南力のあるビジョンを提示することもできなかった。 司馬遼太郎は日露戦争から敗戦までの40年間を「のけて」、明治の日本と戦後の日本を繋ぐことで敗戦後の日本人を自己嫌悪から救い出そうとした。その風儀にならうなら、安倍時代という没落の時代を「のけて」、10年前まで時計の針を戻して、そこからやり直すしかない。2022-06-19 選挙と公約より しつこくもう一度繰り返すが、選挙に勝った政党は政策が正しいから勝ったのではない。「勝ちそうな政党」だったから勝ったのである。選挙に負けた政党は政策が間違っていたから負けたのではない。「負けそう」だから負けたのである。 有権者たちは「勝ち馬に乗る」ことを最優先して投票行動を行っている。その「馬」がいったいどこに国民を連れてゆくことになるのかには彼らはあまり興味がない。自分が投票した政党が勝って、政権の座を占めると、投票した人々はまるで自分がこの国の支配者であるような気分になれる。実際には支配され、管理され、収奪されている側にいるのだが、想像的には「支配し、管理し、収奪している側」に身を置いている。その幻想的な多幸感と全能感を求めて、人々は「権力者にすり寄る」のである。 次の参院選では誰もが「野党はぼろ負けする」と予測している。だから、たぶん野党はぼろ負けするだろうと私も思う。みんながそう予測しているからである。「負けそうな政党」があらかじめ開示されている時に「勝ち馬に乗る」ことを投票行動の基準とする有権者が「負けそうな政党」に投票するということは原理的にあり得ない。 2009年に政権交代があったのは「民主党が勝ちそう」だとメディアが囃し立てたからである。だから、民主党の政策をよく知らない有権者たちもが「勝ちそうな政党に投票する」という、それまで自民党に入れてきたのと同じ理由で民主党に投票したのである。それだけの話である。逆に、2012年の選挙の時は「民主党は負けそうだ」とメディアが揃って予測したので、有権者は「負けそうな政党」に自分の一票を入れることを回避したのである。2022-06-15 無作法と批評性より 銀行の窓口でも、コンビニのレジでも、信じられないほど無作法な口のききかたをする人たちに日常的に出会う。「正しい要求をしている時、人間には無作法にふるまう権利がある」という考え方にはたしかに一理ある。けれども、その逆の「無作法にふるまっている人間は正しいからそうしているのである」という推論は間違っている。 ほとんど場合、過剰に無作法にふるまっている人間は自分の言い分が論理的には破綻を抱え込んでいることを実は知っている。だから、それを見抜かれぬために、相手に考える時間を与えないように怒声を張り上げるのである。 若い人たちに申し上げたいのは、「無作法」と「批評性」を混同しないで欲しいということである。難しい要求であることはわかっている。私自身若い頃はこの二つを混同していた。「寸鉄人を刺す」とか「快刀乱麻を断つ」というような一刀両断的な評言をする人たちは絶対的な確信を持っているからそういう無作法な態度をとっているのだと思っていた。でも、長く生きているうちに、無作法の強度と言明の真理性の間には相関がないということがわかってきた。 若い人たちに知って欲しいのは「批評的でありながらも礼儀正しい語り口」というものがこの世には存在するということである。そういう文章を探し出して、できればそういう「語り口」を身に着けて欲しいと思う。もちろん、それが困難な事業であることはわかっている。でも、若い人たちはそれくらいの野心的な目標を自分に課してもよいと思う。まだ自己陶冶のための時間は十分に残されているのだから。 批評的でありながら礼儀正しい文体というのがどういうものか知りたい人にはアナトール・フランスの『エピクロスの園』とクロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』をご推奨したい。何が書かれているかを理解するよりも先に、彼らの息の長い文体そのものを味わって欲しい。複雑なことを言うためにはそれなりの知的肺活量が必要だということがわかるはずだ。それがわかるだけでも読む甲斐がある。長いものはちょっと読む暇がないという方にはレイモンド・チャンドラーが造形した名探偵フィリップ・マーロウの有名な台詞をお送りしたい。「非情な人間でなければ私は今日まで生きてこれなかっただろう。けれども、礼儀正しい人間であることができないのなら、私は生きるに値しない。」(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)「礼儀正しくあることができないなら、人間として生きるに値しない」というのはずいぶん厳しい言葉である。けれども、今の日本人が真剣に傾聴すべきものだと私は思う。以降の全文は内田先生かく語りき38による。