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カテゴリ:読谷村
(イットゥカグシク/ヒサンミ原) 沖縄本島中部の読谷村にある「波平(なみひら)集落」は村内で最も古い集落の1つで、沖縄の方言で「はんじゃ」と呼ばれています。「絵図郷村帳(1649年)」と「琉球国高究帳(1673年以前に編集)」には「はびら村」の名で出ており、更に「街当国御高並諸上納里積記(1680年)」や「琉球国由来記(1713年)」には現在の「波平」と記されています。「波平集落」の発祥は1535年頃で、始祖の根屋(ニーヤ)である屋号「西桑江」の「池原某」が美里間切池原村より安住できる場所を求めて「波平東原」と呼ばれる、現在の波平公民館周辺に移り住んだのが始まりとされています。 (イットゥカグシクの拝所) (イットゥカグシクの森) (シードー) 「波平集落」の北側に「イットゥカグシク」と呼ばれるグスクがあります。15世紀の琉球武将である「護佐丸」が恩納村の「山田グスク」から移転して「座喜味グスク」を築城する際、一時的に城を構えた事から「イットゥカグシク(一時の城)」という名前が付きました。このグスクがある場所は「ヒサンミ原」と呼ばれています。「イットゥカグシク」を造る為に沢山の人足が必要になり、"足"は沖縄の方言で"ヒサ"と言い「足(ヒサ)が集まる場所」と言う意味から由来して「ヒサンミ原」という名前が付いたと伝わります。また「イットゥカグシク」の森には「シードー」と呼ばれる滝壺があり、かつては集落の子供達の絶好の遊び場所として賑わいました。 (ウフヤガー/大屋ガー) (フタガー/ふたガー) (ターターガー/多和田ガー/多田井戸) 「波平集落」の地形は西海岸の海に向かう階段上になっており、高台から「ムラホーグ」と呼ばれる集落の保護林に沿って水が流れ込んでいます。「イットゥカグシク」の森に「ウフヤガー(大屋ガー)」と呼ばれる屋号「大屋」が掘り当てた井戸があります。「ウフヤガー」の東側にはかつて川と4つの井戸があり、現在はまとめて「フタガー」と称してニライ消防本部読谷消防署の敷地内に石碑と祠が建立されています。「波平集落」の最東端に「ターターガー(多和田ガー/多田井戸)」があり、集落の創建に関わった「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が移り住んでいた事から名付けられました。 (ワンダガー/湾田ガー) (ナカヌカー/仲之カー) (カーヌイーのカー/川之上のカー) (ウフガー/うふガー) 「ターターガー」の南西側に「ワンダガー(湾田ガー)」と呼ばれる井戸があり、一説によると厳しい干ばつの際に掘り当てたと伝わります。この井戸の場所を示す助言者が「ワンチュ(大湾の人)」であった事が名前の由来となっています。ちなみに井戸の前にある窪地は「ワンダジュク(湾田底)」と呼ばれています。「ワンダガー」の北側に「ナカヌカー(仲之カー)」があり、かつて周辺住民の生活用水として重宝されていました。「ナカヌカー」の西側には「カーヌイーのカー(川上之カー)」があります。この場所では「十五夜アシビ」の打ち合わせや「スーダチグヮー」と呼ばれる演舞の予行練習が行われていました。「ナカヌカー」の北側の「ウフガー(うふガー)」の水は豆腐作りに最適な清水として利用されていました。 (ミーガー/新ガー) (イリヌカー/西之カー) (ブシガー/武士ガー) 「シムクガマ」の北東側に「ミーガー(新ガー)」があり「波平集落」で最も新しい井戸である為、この名前が付けられました。「ミーガー」の西側には「イリヌカー(西之カー)」と呼ばれる井戸があり、屋号「亀倉根」の屋敷前にあるの為「亀倉根前(カミークランニーメー)のカー」とも呼ばれます。「イリヌカー」の北西側にある「ブシガー(武士ガー)」はフンシークミヤー(風水師)により「この井戸の水を飲むと武士が沢山生まれ、争い事が絶えなくなる」と告げられました。その後、住民はこの井戸の水を飲まなくなり「波平集落」から乱暴者がいなくなったと伝わります。集落では「シーダカサン(霊力が高い)」との理由で昔から「ブシガー」の整備が行われていないそうです。 (イングェーガマ) (イングェーガマの上部) 「波平集落」の北西端に「イングェーガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。このガマは沖縄戦で住民が悲劇の集団自決をした「チビチリガマ」の南側約50mの位置にあり、現在はフェンスで囲まれています。アメリカ軍が沖縄本島に上陸したその日「イングェーガマ」に避難していた住民は、アメリカ兵の「コロサナイ、デテキナサイ」という日本語での要求に応じてガマから出て収容されました。その中の1人が「チビチリガマ」まで行きガマに避難している住民にも投降するよう呼びかけたという話が伝わっています。「イングェー」という名前の由来は、昔何日も雨が降らず厳しい水不足で困っている時、びしょ濡れのイヌが出てきた事からこのガマが発見され、イヌ(イン)の井戸(ガー)から「インガー」と呼ばれ、その後「イングェー」へと変化したと伝えられています。 (大当原貝塚) (大当原貝塚の森) (イタビシ/板干瀬) 「波平集落」の西海岸に「大当原貝塚」があり、内陸部の琉球石灰岩の岩陰に貝塚の森が広がっています。「大当原貝塚」は今から約2000年前から2500年前の埋葬方法を知る上で貴重な遺跡です。1972年と1989年に発掘調査が行われ、人間の頭骨が土器で覆われた状態で発掘されました。頭骨だけを選び分けて土器で覆う葬り方は非常に特徴的で重要な発見となりました。頭骨を覆っていた土器は底が尖り、粘土を重ねた凸凹が残るもので「大当原式土器」と呼ばれています。更に貝塚からは貝殻で作った網のおもり、貝殻の皿や腕輪も出土しています。貝塚の南側一帯の浜にはイタビシ(板干瀬)と呼ばれる地質学的に珍しい、海浜砂粒が自然に固まった「ビーチロック」が見られます。このように「波平集落」は多数の遺跡文化財の他にも自然豊かな集落として栄え、人々の暮らしと営みが昔から続いているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.12 21:39:18
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