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カテゴリ:読谷村
(トゥクシ岩) 沖縄本島読谷村の「渡慶次(とけし)集落」の北側に「トゥクシ岩(ジー)」と呼ばれる大岩があります。かつて「トゥクシ岩」の周辺には美しい芝生が広がり、集落の住民が憩う絶好の場所でした。そして夜は若い男女の出会いや語らい、更にモーアシビー(毛遊び)の場でもあったと伝わります。集落はこの岩の名称に由来して「トゥクシ」と名付けられましたが、時代の流れの中で「トゥクシ」の集落に優れた知恵者が現れて「トゥクシ」を「渡慶次」に改称するようになった、という古老達の言い伝えが残っています。 (トゥクシ岩の森) (トゥクシ岩の拝所) 五穀豊穣に感謝する奉納舞踊であるムラアシビ(村遊び)が近づくと「トゥクシ岩」の前でグィーシラビ(声調べ)をして配役を決めて踊りの練習をしていました。「トゥクシ岩」の言われは、大地に根を下ろしたその大岩が人間の体の重心となって体を支えているトクシ骨(背骨)にも似ており、村落繁栄のためにクサティ(腰当)となって下さい、という神への願いから「トゥクシ岩」と名付けられたと伝わります。現在も「渡慶次集落」の清明祭では第二尚氏王統の始祖である「尚円王(1415-1476)」が生まれた「伊是名島」へのンケーノーシドゥクル(遥拝所)として利用されています。 (ガンヤー/龕屋跡) (無縁墓) (フドゥー/不動) 「トゥクシ岩」南西側の麓にはかつて「ガンヤー(龕屋)」と呼ばれる小屋がありました。死体を収める棺を墓まで運ぶ輿をガン(龕)と呼び、ガンを保管する小屋を「ガンヤー」と言います。そのため「トゥクシ岩」の一帯は「ガンヤヌイー」とも称されました。「ガンヤー」の南東側に「無縁墓」があり3基の霊石が祀られウコール(香炉)が設置されています。更に「ガンヤー」の北側には「フドゥー(不動)」と呼ばれる祠があり、不動明王に起因する拝所だと伝わっています。旧暦9月16日の「ハルヤーポン祭」と呼ばれる大御願(ウフウガン)では米や粟で作った餅などを「フドゥー」に供えて豊作を祈願ました。 (渡慶次御嶽) (渡慶次御嶽の火之神) (ボージヌメー/ウフウタキ) 「渡慶次集落」の北東側に「渡慶次御嶽」があり、大木がそびえ立つ岩盤の一帯が御嶽と称されています。「渡慶次御嶽」の敷地には「火之神」の祠が建立されており、霊石とウコール(香炉)が祀られています。御嶽の玄関口として訪れた際には「火之神」から拝します。「渡慶次御嶽」の岩盤の麓には「ボージヌメー」という拝所となっており「ウフウタキ」とも呼ばれています。霊石が祀られウコール(香炉)にはヒラウコー(沖縄線香)が供えられており、この拝所には今帰仁(北山)系統の士と伝わるニッチュ(根人)と呼ばれる集落の創始者である「ボージヌメー」が祀られています。旧暦8月2日の「ボージヌウガン(御願)」に集落の住民により拝されています。 (グシクダキ/城嶽) (按司墓) 「渡慶次御嶽」の北側に隣接して「グシクダキ(城嶽)」と呼ばれる岩山があり、集落の始祖である「ボージヌメー」の家族等を祀った墓所となっています。「グシクダキ」の南側岩崖の麓には「按司墓」と呼ばれる自然の岩の窪みを利用した古墓があり、ウコール(香炉)にヒラウコー(沖縄線香)が供えられています。「グシクダキ」という名称から、かつてこの岩山をグスク(城)として構えた城主(按司)が「按司墓」に祀られていると考えられます。戦前まで「グシクダキ」は禁忌の場所として、一般の住民の立ち入りは禁じられていたと伝わっています。 (アタトーヤー) (火之神) (無縁墓) 「渡慶次御嶽」の南側に「アタトーヤー」と呼ばれる「神アサギ」がありトゥン(殿)とも呼ばれています。「神アサギ」とはノロ(祝女)が集落の祭祀を行う神聖な場所で、琉球王府により編纂された地誌である「琉球国由来記(1713年)」には「渡慶次之殿」と記されています。「渡慶次集落」は「崎原巫(崎原ノロ)」により祭祀が行われ「崎原ノロ」は「渡慶次、高志保、長浜、宇座」の4集落を管轄した位の高い祝女でした。「アタトーヤー」の敷地には「火之神」の祠があり多数の霊石が祀られています。更に「無縁墓」が設けられておりウコール(香炉)が祀られています。 (ジトゥーヒヌカン/地頭火之神) (チンガーグヮー/チン井小) (チンガーグヮーのフドゥー) 「アタトーヤー」の南側に「ジトゥーヒヌカン(地頭火之神)」の祠が建立されています。かつてこの場所は「渡慶次地頭」の詰所があり「火之神」が祀られていたことから「地頭火之神」と呼ばれるようになりました。「渡慶次地頭」は「渡慶次」の集落を治めた「脇地頭」と呼ばれる領主で、集落の行政を司る士族でした。「渡慶次地頭」は1643〜1673年に地頭を務めた「渡慶次親雲上道治」に遡ると言われています。「ジトゥーヒヌカン」の東側に「チンガーグヮー(チン井小)」と呼ばれる井戸跡があり「渡慶次集落」で初めに利用されていた井戸だと伝わります。この井戸には「フドゥー」が祀られた祠が建立されています。 (シーシヤー/獅子屋) (カナチグチ) 「渡慶次公民館」の南側に「シーシヤー(獅子屋)」と呼ばれる獅子を収めた小屋があります。「渡慶次集落」の獅子は1750年頃に作られたと伝わり、旗頭と共に集落を象徴するもので守護神として崇められています。旧暦8月15日には「獅子之御願」が執り行われ「嘉利吉や続く 村の喜びや 獅子がなし 連りて 踊い遊ぶ」と三線に乗せて謡われます。また、旧暦6月14日に中道を境に「アガリニンズ(東組)」と「イリニンズ(西組)」に分かれて綱引が行われました。東が雄綱、西が雌綱で両綱の繋ぎ目にカナチ棒を通す場所は「ナカチグチ」と呼ばれ、戦災から免れた「カナチグチ」の印石が「渡慶次農村公園」の北側に現在も残されています。 (トゥクシ岩南側のカンカー) (渡慶次御嶽北側のカンカー) (アタトーヤー前のカンカー) 旧4月1日と8月1日に「渡慶次集落」から伝染病や悪疫を追い払うため、集落内の7門から外に向かって「カンカー」と呼ばれる御願が行われています。5ヶ所の「カンカー」の他にも「カナチグチ」と「シーシヤー」を巡拝します。その際に「シーシヤー」では碗にウブク(御飯)を入れて獅子に供えます。「渡慶次集落」は「トゥクシ岩」に由来する言い伝えがありますが、この他にも「渡慶次」発祥の文献があります。初めて「渡慶次」の地に家屋敷を建て移り住んだのが「北谷桑江村」より来た「伊礼子」という人物であるが、嗣子がなく次に「美里伊覇村」から来た「渡慶次主」が後を継ぎ、今日の「渡慶次集落」を創立したと記されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.11.12 21:37:49
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