カテゴリ:歴史と絵画
秋田蘭画とは、江戸時代中期東北秋田で描かれた日本での初期洋風画の事です。
秋田藩主の佐竹曙山と支藩角館藩士小田野直武の2人が、その代表的な画家とされています。 描かれた期間が短いため現存する作品は多くありませんが、本格的に西洋画を学びそれを日本伝統絵画に取り入れた絵には特異な美の世界があります。 そんな秋田蘭画に興味がありました。 私が仕事で秋田に行った時に、秋田蘭画を求めて秋田市立美術館(千秋美術館)に行ってみましたが、秋田蘭画のレプリカは飾ってあったものの実物の秋田蘭画は展示されていませんでした。 しかたなく、秋田蘭画の絵葉書を買って帰りました。(秋田の人ももっと秋田蘭画をPRすればよいのに・・・) 秋田蘭画が描かれるようになったのは、平賀源内の秋田滞在がきっかけでした。 平賀源内は国学・蘭学・科学・物産学などを研究する学者であり、戯作や芝居の台本、狂歌も作ったりと多岐にわたって才能を発揮した才人です。 幕閣の実力者であった田沼意次からも信頼され重用されていました。 秋田藩は当時財政難に苦しんでいて、領内にある鉱山開発のため源内を招聘したのです。そこで西洋画も習得していた源内が西洋画を教えたのが、秋田で西洋画が描かれるはじまりとなりました。 特に角館の小田野直武に目をかけ、源内が編纂を始めていた物産の図譜を描かせたいという事もあり直武に西洋画の勉強をさせます。 やがて、直武を江戸に連れて行き源内の屋敷で5年にわたり江戸暮らしを続けます。 その間源内から杉田玄白を紹介され、人体解剖書を翻訳した「解体新書」の編集に参加、彼はその挿絵を描きます。 秋田に戻ってから、絵画を自分で描いていた秋田藩主佐竹曙山のお絵かき相手に任命され、曙山のもとで西洋画を描きます。 こうして2人で秋田蘭画の製作に励むこととなりました。 しかし、こうした秋田蘭画の製作は永くは続きませんでした。不幸な出来事が相次ぎます。 まず、藩主の曙山が病に倒れたのち、今度は直武も突然藩から謹慎処分を命ぜられさらに蟄居中に病の床につきます。 さらに江戸で平賀源内が獄死と不幸な事件が続き、そうした中32才の若さで小田野直武はこの世を去ります。 秋田蘭画が描かれた期間は7年ほど、秋田に日本洋風画の光を放ったものの、それを根づかせることなく短い歴史的使命を閉じることになったのです。 画:佐竹曙山 「湖山風景図」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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