カテゴリ:奈良時代
奈良時代、孝謙(称徳)女帝は2人の男性を厚く寵愛しました。 藤原仲麻呂(恵美押勝)と道鏡です。 2人は、当時最高位の太政大臣にまで相次いで昇りつめ、権勢を誇りました。 孝謙女帝が即位したのは天平勝宝元年(749年)。 聖武天皇には男の子がなかったため、皇太子として未婚のまま育てられ、即位の時32才でした。 父より大仏建立の事業を受け継ぎ、即位4年目の天平勝宝4年には、大仏開眼供養を行っています。 孝徳女帝、最初の愛人は藤原仲麻呂。 藤原仲麻呂は、不比等の長男武智麻呂の次男で藤原北家の出身です。 学才に優れ、孝謙女帝から信任を受けて政権と軍事の両方を掌握していきました。 仲麻呂は政変により次々と対抗勢力を押さえ込み、天平宝字2年(758年)には彼の推す淳仁天皇を即位させます。 この時、太保(右大臣)に任ぜられ、孝謙帝から恵美押勝の名を与えられました。 恵美押勝の名には、「そなたを見ると笑ましく思わす」 との女帝の愛慕の意が込められていました。 天平宝字4年(760年)には、ついに太師(太政大臣)にまで登りつめます。 太政大臣はそれまで皇族が就くべき職であったため、人臣でこれに就任したのは彼が始めてでした。 又、当時の官職名は太保・太師など唐風の呼び方が使われていましたが、 これも、仲麻呂(押勝)が唐文明の信奉者であった事から、そのように改めたものでした。 恵美押勝の全盛時代が続き、やがて彼は新羅への侵攻を計画しはじめます。 そうした中、押勝にライバルが登場しました。 僧の道鏡です。 道鏡は河内の土豪の出身で、物部氏の子孫であるとも言われていますが、 はっきりした素性はよくわかりません。 僧としては禅行を良くし、宮廷内で禅師に任じられていました。 孝謙上皇は近江の国で病に伏せた時、道鏡の評判を聞き彼を呼びました。 当時の治療は加持・祈祷によるまじないの要素が強かったのです。 これにより、孝謙上皇の病は癒え、この頃から道鏡をそば近くにおくようになりました。 孝謙上皇の寵は、押勝から道鏡に移っていったのです。 やがて、押勝もこれを知ることとなり、彼の傀儡である淳仁天皇から孝謙上皇に諫言させました。 しかし、孝謙上皇はこれに対して激怒し、政治の事は淳仁には任せないと言い、自らは髪を切って尼となります。 それと共に、道鏡を小僧都にと昇格させていきました。 これに対し、押勝は兵を集め反乱の準備を進めました。 しかし、密告するものがあり、孝謙上皇は軍学者として名高い吉備真備を召して押勝追討を命じます。 押勝は一戦してもろくも破れ、近江から越前に逃れようとして捕らえられ、斬首されました。 恵美押勝の乱です。 一方の、淳仁天皇も廃位とされ、淡路に流される事となりました。 孝謙上皇が再び皇位に就き、称徳天皇となります。 称徳天皇のもと、道鏡はますます出世を続け、 天平神護元年(765年)には太政大臣禅師、翌年には法王に就任します。 法王という身分は、供御を受け、服食も天皇に準じたものを認められていて、 まさに天皇と同格といえるものでした。 さらに、これまでの唐風の官職名を廃止し、政策は仏教の理念に基づいて進められました。 こうした道鏡の全盛時代は、称徳天皇の薨去まで続くこととなります。 こうして見て来ると、やはり天皇の権威が強かった時代であった事がわかります。 そのために、天皇の思いのままに人を取り立て、引き立てた人が強い権力を握ることが出来たといえます。 又、これらの事件から、孝謙(称徳)天皇は好きになった男には徹底的に打ち込むタイプの女性であったことがうかがえます。 権力と関係のない一般人であれば、良い奥さんになったのではないかと思うのですが・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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