カテゴリ:シリーズ幕末史
坂本龍馬が土佐藩を脱藩したのは、文久2年(1862年)の3月。 土佐を出てからは、下関に渡り、そこから九州各地を遊歴しました。 龍馬が脱藩した動機・目的については、実のところはっきりわかりません。 尊王攘夷派であった龍馬は、 当時薩摩の島津久光が引兵上京してきていたのに呼応して、 決起しようと考えていたとは思われます。 しかし、彼は、京ではなく何故か九州に向いました。 その後、大阪から江戸へ出て、やがて開明派の幕臣勝海舟に入門。 尊王攘夷から開国通商へと、考え方を転換しています。 脱藩後、遊歴中の龍馬には、思想を変革するきっかけが何かあったように思われます。 龍馬が勝海舟に入門した時の有名なエピソード。 龍馬が始めて勝海舟を訪ねた時、海舟は開口一番、 「君は私を殺しにきたのであろう。 斬るというなら斬られてやってもいいが、 その前に私の話を一応聞きなさい。」 といい、 開国と近代軍備の必要を大いに論じ、 その意見に龍馬は大いに感服し、海舟の門人になったというお話。 しかし、このエピソード、説得されたからといって考え方を180度変えたとは あまりに単純であるため、信憑性は薄いとも言われています。 実際には、龍馬が海舟を訪問するにあたっては、越前藩主・松平春嶽の紹介状を 持っていったとされています。 龍馬の九州遊歴中、熊本で横井小楠(春嶽の顧問)と懇意になり、 小楠-春嶽のラインで海舟を紹介してもらったという説が有力で、 龍馬が海舟を訪ねた時には、すでに開国論に傾いていたといったところが 実際だったのではないかと思われます。 一方、勝海舟はこの当時、軍艦奉行並という幕府の要職にあり、 幕府内開明派の代表的存在でもありました。 咸臨丸での米国渡航を経験したことから、より一層、 海軍を中心にした軍備の近代化と、身分を問わず人材を抜擢する事を主張。 幕府中心の支配体制を改め、社会体制そのものを変革する必要性を実感していました。 龍馬もこの考え方に、大いに共感したのでしょう。 文久2年の12月。 龍馬は海舟の家来という身分で、幕府軍艦に乗船して西上、京に入ります。 この時期の京の町、尊攘過激派の全盛期で、"天誅"事件が多発し騒然としていました。 しかし、そうした状況の中、龍馬は土佐の昔の同志たちと接触を取り始めます。 今、日本が海軍力をつける事の重要性を説き、海舟に入門することを説得して廻ったのです。 その結果、近藤長次郎・望月亀弥太など、数名が海舟に弟子入りするに至り、 さらには、当時人斬りと呼ばれ刺客として名を知られていた岡田以蔵までも取り込んで、 彼に海舟の用心棒の役をさせたりしました。 気さくな人柄で、日本の将来を語る龍馬に彼らも魅せられたのでしょうか。 龍馬はその本領を示し始めたといえるでしょう。 翌年2月には、勝海舟や松平春嶽の口添えにより、龍馬は土佐藩士の籍に復帰。 脱藩の罪が許されます。 やがて、土佐藩士としての身分で、神戸に創設されることになった海軍操練所の 中心メンバーとなり、その活躍の場を広げていきます。 「今にては、日本第一の人物勝麟太郎殿といふ人の弟子となり、 日々かねて思いつきたる所を精を出しおり申し候・・・ 国のため天下のため、力を尽くしおり申し候 どうぞ、おん喜びねがいあげ候」 この頃、龍馬が姉の乙女にあてた手紙の一部です。 ようやく、自らの進む道を見出すことが出来た坂本龍馬、 その雀躍するさまが、文面から伝わってくるようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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