カテゴリ:奈良時代
日本史の上で、貴族・公家社会の中心であり続けたのが藤原氏。 平安時代には、次々と天皇家に皇后を送り込むことで、 その外戚として栄華を極め、武家が政権を握ってからも 公家として、宮廷の中心であり続けました。 藤原氏の取ってきた政治手法というのは、その善悪は別として、 ある意味とても日本的であるともいえ、 現代に至るまでの日本政治に、受け継がれているようにさえ感じます。 こうした藤原政権の基礎を築いたのが、 藤原不比等でありました。 これから何回かにわたって、藤原政権が確立される過程についてのことを、 書いていきたいと思っているのですが、今回はその一回目。 今回は、まず、藤原不比等について。 藤原氏の始祖は鎌足。 中大兄皇子(のちの天智天皇)とともに、大化の改新を成し遂げ、 律令制・中央集権国家の基礎作りを担った人物として有名でありますが、 この鎌足の子が不比等です。 しかし、不比等は、父鎌足の功績をそのまま引き継いだわけでは決してなく、 不比等は、自分の代で、藤原氏の勢力基盤を築いていった人でありました。 それというのも、鎌足の死後、天智から天武への政権の移行(壬申の乱)があり、 不比等は天智系の人であったため、用いられることがなかったためでありました。 天武(大海人皇子)は、天智の晩年には、互いに反目しあっていたため、 不比等は、天武政権のもとでは、下級の官吏でしかなかったのです。 しかし、持統天皇が即位してから、不比等は急速に頭角を現し始めます。 政権の中枢に参画し、さらには、文武天皇、元明天皇が即位するにあたっては、 その立役者にもなっていきました。 大宝律令・養老律令を制定し、 律令国家のしくみを日本に確立させ、 また、平城京への遷都を推進したのも不比等でした。 こうして、不比等が台頭してきた要因には、彼自身、とても知識があり、 有能でもあったという事があります。 しかし、それだけではなく、 不比等は、一面、すごく権謀に長けた人でもあったのです。 その一つが、天皇家との婚姻政策。 不比等は、自分の娘を天皇家に嫁がせ、 それにより政権基盤の強化を図りました。 長女の宮子は文武天皇に嫁ぎ、宮子は聖武天皇の母となりました。 末娘の安宿媛(あすかべひめ)も聖武天皇の妃となり、 のちに人臣初の皇后(光明皇后)となります。 不比等は、このようにして、後の藤原氏の栄華の基盤を着実に築いていったのです。 そして、不比等の死後、 その政権は、不比等の4人の息子たちに引き継がれていくことになり、 その後、多少の浮沈を繰り返しながら、やがて、 藤原政権は最盛期を迎えていくことになるのですが、 この続きは、また、いつか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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