カテゴリ:シリーズ京歩き
三年坂・二年坂から清水寺に続くこの一帯は、まさに京都を代表する観光地。 修学旅行の学生や、外国人観光客など、この日も多くの人が清水寺に来ていました。 清水の舞台に上がると、その見晴らしは爽快で、 さすがにここは、何度、訪れてもちょっとした感動が味わえる場所です。 この清水寺、もちろん素晴らしいのですが、 しかし、今回ご紹介したいのは、この清水の近くで最近見つけた 私のお気に入りのお寺。 歌の中山とも称される清閑寺というお寺です。 そこは、清水の賑わいとは一転して、静けさと癒しの寺。 清水寺の南側の裏門から出て、5~6分ほど歩いたところにあります。 この間の道が林道のような山道になっていて、 昔は、ここからの眺めが素晴らしかったとのこと。 多くの歌人が、この眺めを歌に詠んだといい、 そのためこの道が、歌の中山と呼ばれるようになったのだそうです。 途中には、高倉天皇と六条天皇の御陵もあります。 往時は、この御陵も清閑寺の境内だったといいますから、 清閑寺というお寺も、かつては、清水寺と肩を並べるほどに大きなお寺だったようです。 清閑寺の門前です。 小高い山の中腹にあり、周囲には山々の景色が開けていて、 狭い境内であるにもかかわらず、とても、開放感があるお寺です。 この寺の堂宇はといえば、本堂がたたずむのみ。 しかし、この寺は、平安初期の延暦21年(802年)の創建と伝えられ、 古くからの歴史を刻んできた古刹なのであります。 それだけに、この寺には、いくつかの歴史の逸話も伝えられています。 その一つが、「平家物語」にも登場する、 高倉天皇と小督局の悲恋のお話。 以下は、その概略です。 高倉天皇の正室は、平清盛の娘の建礼門院徳子。 しかしながら、高倉天皇は徳子に仕えている小督局と恋に落ちます。 これを知った義父の清盛は激怒し、小督局を宮中から追放するように命じ、 小督は、嵯峨野の小庵に身を隠します。 それでも、高倉天皇は、そんな小督を探し出し、再び御所に連れ戻しました。 その後、2人の間には、内親王まで生まれることになります。 しかし、清盛は、黙ってこれを見過ごすことはありませんでした。 やがて、小督の手から内親王を取り上げ、 さらに、小督に対して、今度は、出家するようにと命じます。 そして、この時、小督が出家したお寺というのが、この清閑寺。 以後、小督は、尼として、この地に住まうことになります。 ところで、一方の高倉天皇も短命でした。 若くして死の床につくのですが、この時、高倉天皇は、 「小督のいる清閑寺に墓を作って欲しい。」 と、遺言します。 こうして、清閑寺の境内に高倉天皇が葬られることとなり、 小督は亡くなるまでの間、そのそばで天皇を弔い続けたのだといいます。 清閑寺の境内には、小督局の供養塔が残されています。 もうひとつ、この清閑寺は、幕末期にも歴史の舞台となっています。 それは、西郷隆盛と勤王僧・月照が、 将軍継嗣問題や井伊直弼の強権政治に対抗するための方策について、 密談を行っていた場所が、この清閑寺であったというお話。 清閑寺には、かつて、郭公亭と呼ばれる茶室があって、 2人は、ここで密談を続けていたのだと云われています。 やがて、この2人は、幕府の追及を受けることになり、月照も薩摩に逃れ、 最後は、錦江湾において、2人して投身自殺をはかることとなるのですが、 この顛末については、以前に、このブログで書いたことがあるので、 興味のある方は こちら をご覧下さい。 こうした色々な歴史に思いを馳せながら、 静かに京都の町を見下ろすひとときも良いものです。 境内には、”要石”と呼ばれる石があって、 ここに座って京都の町を見ると、 ちょうど、その景色が扇形に広がっているように見えることから、 この名がつけられているのだとか。 そう、この寺、 こうした、様々な由緒を持った寺ではありながら、 いつ来ても、ここを訪れる人に出会うことがありません。 ほとんど知られていない穴場なんでしょうね。 それだけに、この寺にくると、まるで、この場所を独り占めしているかのような感じさえしてきます。 とても静かで、いい雰囲気の癒される場所。 清水寺の賑わいも良いけれど、その後に、 ゆったりとくつろげる、この清閑寺には、とっておきの魅力があります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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