カテゴリ:明治の群像
飲食店にしても、駅のホームにしても・・・。 最近は、禁煙になっているところがほとんどで、 愛煙家にとっては、肩身が狭い昨今です。 身体に悪いから、やめた方がよいと、わかってはいても、 なかなかやめられないのが、タバコです。 タバコというのは、元々、アメリカ大陸から伝わってきたものでありますが、 中でも、一番最初に喫煙を始めたのは、マヤの人々であったといわれていて、 彼らは、儀式や魔除けという意味あいでタバコを吸っていたのだそうです。 大航海時代になると、船乗りの間でタバコが広まっていき、 当時、喫煙には様々な薬効があると信じられていたのだといいます。 日本にタバコが伝わってきたのは、室町時代。 ポルトガルの宣教師により伝えられたといい、 その当時の認識も、やはり高価な薬品というものだったようです。 それが、手頃な価格に値下がりしてきて、江戸の中期になると、 庶民の間にも、喫煙の風習が広まっていくことになりました。 ただ、この頃のタバコというのは、今のような紙巻形のタバコではなくて、 煙管(キセル)を使って、煙をくゆらせるスタイルのもの。 今のような形の紙巻タバコが普及していくのは、明治以降のこととなります。 と、以上、タバコの歴史を概観してみましたが、 今回、取り上げようとしているのは、 明治時代に紙巻タバコの製造販売で大成功し、 「煙草王」とも称されたという実業家・村井吉兵衛のこと。 タバコの大ヒット銘柄を次々と生み出し、 今の日本タバコ産業の原型を築いたともいえる彼の生涯について、 以下、まとめてみたいと思います。 *** 村井吉兵衛が生まれたのは、幕末期の文久4年(1864年)、 京都で煙草商を営む商家の家に生まれたといいます。 とは言っても、家計は貧しかったようで、 吉兵衛は、叔父の家に養子に出され、 やがて、そこで吉兵衛は、煙草の行商を始めることになります。 この吉兵衛。 なかなかに商才や、利殖の才があった人のようで、 煙草の行商によってお金を蓄え、やがて、煙草の製造をも手掛けていくようになっていきます。 当時、明治初年の頃というのは、文明開化の風潮の中、 タバコにおいても、紙巻形のものが西洋からもたらされ、 これが、その手軽さとともに、ハイカラさの象徴であるとして注目を集め始めていました。 この紙巻煙草を製造する会社も、日本で何社か現われてきており、 吉兵衛も、これに目をつけます。 タバコといえば、今はフィルターがついているのが一般的ですが、 この当時は、まだ、フィルターつきのタバコというのは世に現れておらず、 吸い口にストローのような巻紙をつけた口付きと呼ばれるものが一般的でした。 しかし、吉兵衛はこの口付き式ではなく、 端から端まで葉が詰まっている「両切り」というタバコを研究しました。 今でも販売されているゴールデンバットのようなものですね。 吉兵衛は、これを日本人の嗜好に合うようにということで研究を重ね、 製品の開発を進めていきました。 こうして生み出されたのが、日本初の両切り紙巻き煙草「サンライス」。 さらに、吉兵衛は、これのポスターを作って広告するなどの宣伝にも力を入れ、 それにより「サンライス」は、たちまち、大ヒット銘柄となっていきます。 その後も、自らアメリカに渡ってタバコの製造方法を研究、 その成果を持ち帰って、次に、吉兵衛が開発したのが「ヒーロー」という銘柄でした。 この「ヒーロー」は、パリ万博で金賞を受賞するなど、世界的にも認知される銘柄となっていき、 その生産量は日本一を記録し続けます。 こうして、煙草業界で確固たる地位を築いていくことになった村井吉兵衛。 やがて、彼は世間から「煙草王」と称されるようになっていきました。 ところで、吉兵衛には、この頃、 もう一人、強力なライバルがいました。 それが、東京で「天狗煙草」という口付き煙草を販売し、 人気を博していた岩谷松平という人物。 岩谷は、軍に煙草を納入することで実績を上げ、 又、その一方で、派手な宣伝広告を行うことにより、煙草の売上を伸ばしてきていました。 この頃には、吉兵衛も販売拠点を東京に広げていましたが、 そこで、この両社の熾烈な広告合戦が、繰り広げられます。 岩谷のイメージキャラクターは天狗で、シンボルカラーが赤。 岩谷は、赤い衣装で赤い馬車に乗り込み、自らを大安売りの大隊長と称して街中をパレードし、 「天狗煙草」をPRして回ります。 一方の吉兵衛もこれに対抗。 吉兵衛のシンボルカラーは白で、 白いのぼりを揚げた楽隊を編成し、 これに、商品のテーマソングを演奏させて街路を行進しました。 さらに、この頃、「ヒーロー」には“たばこカード”をおまけとして添付するなど、 当時としては斬新な販促策を打ち出し、こうしたことでも販売効果を上げていたようです。 両社の広告合戦はエスカレートし、時には騒動を巻き起こすこともあったようですが、 状況としては、アメリカでの見聞を広めていた吉兵衛が、 モダンで洗練されたデザインを前面に押し出して、 岩谷の「天狗煙草」を凌駕していたようです。 しかし、このような販売競争を繰り広げていたタバコ産業に、 やがて、大きな転機が訪れることになります。 それが、タバコの製造販売に対する国家の介入。 当時、財政難に陥っていた明治政府が、 こうしたタバコ販売の活況ぶりに、目をつけたのです。 まず始めは、日清戦争が始まった頃のこと。 新たに煙草税を導入しましたが、ただ、この税制は思ったようには機能せず、 結局、税収効果を上げることが出来ませんでした。 そうしたうちに、勃発したのが日露戦争。 政府は、戦費調達の必要に迫られることとなり、 タバコを国家専売制に切り替えることにより、この財源にあてようとしました。 これにより、村井吉兵衛も岩谷松平も、 煙草業からの撤退を余儀なくされることとなってしまいました。 こうして、約30年続いてきたタバコ民営の時代が、 終わりを告げることになります。 それでも、吉兵衛は、 この時、煙草専売制に切り替えるということで、 国から莫大な額の補償金を受け取りました。 吉兵衛は、その資金を元手に村井銀行を創設し、 また、それ以外にも印刷・石鹸製造・カタン糸などと事業を広げていきました。 村井財閥の成立です。 しかし、それも、それほど長くは続きませんでした。 大正15年に、吉兵衛が死去。 その翌年には、昭和恐慌により村井銀行は破産し、 村井財閥は崩壊してしまうことになります。 ![]() 京都・円山公園の隣に建つ、「長楽館」という西洋風の瀟洒な建物。 今は、ホテルとなっていますが、 元は、村井吉兵衛が国内外の賓客をもてなす迎賓館が必要だとして、 私財を投じて建てたものでありました。 レトロな「長楽館」の、その外観からは、かつての煙草王の華やかなりし生活のさまが うかがい知れるようにも思えます。 もし、吉兵衛が、そのままタバコ業を続けられていたら・・・。 村井吉兵衛の生涯も、そうした意味では、 国策により翻弄された人生であったと言えるのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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