|
カテゴリ:藤沢歴史散歩
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク
引地川沿いを海に向かって歩く。 津波浸水予測図が掲示されていた。 1605年(慶長9年)の如き慶長型地震が発生すると、この場所は3~4mの浸水となる模様。 昨日、紹介した引地川堤防築造碑よりはるか後年、昭和7年から9年(1932~34年)に かけて、当時の神奈川県と藤沢町の手により行われた、下流部の改修工事のことが刻まれていた。 付近の農民が度々河川の改修を陳情したこと、やっと県が多額の予算を組んで改修工事を 実施したこと、改修が済んでこの付近の水害がなくなったことなどが、刻まれている主な内容。 ちなみに、鵠沼橋の架橋も昭和7年なので、この改修工事と同時に架橋を行ったもの。 階段を上がり、国道134号線に。 見下ろすと右手には歩いて来た引地川が。 国道134号は、横須賀市から中郡大磯町に至る相模湾に沿って走る一般国道。 この鵠沼橋の先の左側には「鵠沼プールガーデン」があり、子供の頃はここで 何回もプールを楽しんだのであった。 しかしこの鵠沼プールガーデンは平成12年9月に営業を終了し、現在は 「鵠沼海浜公園スケートパーク」として利用されている。 こちらから見ると、江の島をちょうどV字型に二分する境となって いることから、 旧鵠沼橋の親柱。 平成2年の台風集中豪雨で倒壊した この橋のもとの親柱。 もとの橋は昭和7年に作られた由緒ある物だったようです 。 ニエアルは中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者。 なぜ、ニエアルの記念広場がここにあるかといえば、1935年、 ここ鵠沼海岸で友人と遊泳中に帰らぬ人となったのだ。 「義勇軍行進曲」が中華人民共和国の国歌となった年に藤沢市民有志により 聶耳氏を記念する運動が起こり、1954年(昭和29年)記念碑が建てられ、 その後台風により記念碑が流出したが再建され、1986年(昭和61年) 聶耳氏没後50周年を記念する事業として現在のレリーフと広場が整備された。 石碑の左上には丸い聶耳の胸像(レリーフ)が。 聶耳にゆかりの深い雲南省から石を取り寄せ、「聶耳の略歴」と 「聶耳の生涯と聶耳記念碑保存会の活動など」を中国語で彫刻した石碑を建造。 1980年5月から昆明市との交流が始まり、1981年8月、昆明市長から友好都市提携を したい旨の文書が寄せられ、翌月9月の定例市議会において都市提携の議決がなされ、 1981年11月5日、友好都市締結の調印式が行われたと。 聶耳の死という出来事が、藤沢市と昆明市、そして日本と中国を強く結びつけることに なったのだ。青年の死を悼む藤沢市民の気持ちと、そのことをありがたく思う中国の方の 気持ちが通じ合い、聶耳の終焉の地に建つ聶耳記念碑こそが、その友好のシンボルと 鵠沼地区、そして引地川沿いを歩き湘南海岸まで出てこの日の散歩を終わったのであった。 徒歩にて小田急線鵠沼海岸駅まで歩き、小田急線で帰宅の途についたのであった。
鵠沼は、1100年の古い歴史をもつ北西部と、110年前から日本初の計画的別荘地分譲と 海水浴場が開かれた南東部の二つの面があるのだ。 明治中期以降、鉄道の開通を契機に、別荘地、保養地、住宅地として開発が進んだ。 また明治から昭和にかけて、多くの文化人が滞在するなど、歴史と文化の街として 発展してきたのであった。 そしてそれぞれに魅力ある地域を形成していた。 また「鵠沼市民センター・公民館」内に「鵠沼郷土資料展示室」が開設されているとのこと。 昔の貴重な写真や資料から、「鵠沼」の懐かしい風景や当時の暮らしぶりをうかがい 知ることができるとのこと、是非一度訪ねたいと思っているのである。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.06.15 19:19:08
コメント(0) | コメントを書く
[藤沢歴史散歩] カテゴリの最新記事
|