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カテゴリ:国内旅行
岡山駅から吉備線(桃太郎線)に乗り20分、無人駅の吉備津駅で下車。 駅前の細い道を戻ると、官幣神社(かんぺいじんしゃ)吉備津神社と刻まれた石碑が正面に。 官幣神社は日本において官(朝廷、国)から幣帛(へいはく)ないし幣帛料を支弁される神社。 幣帛は、神道において神前にささげるものを総じた名称。 幣帛料は、これらに代えて金銭をお供えする場合に使う言葉。 右折すると太鼓橋の先に松並木が。 石の鳥居をくぐり吉備津神社に向かう。 克明に残された神話伝説の「まほろばの里 高松」の塔が交差点の角に。 高松地区は、岡山市中心部から西へ約12キロメートルの所にある自然豊かな農村地帯。 全国的に知られる吉備路エリアの一部に属するこの地は、古代吉備文化の中心地であり、 桃太郎伝説録の吉備津神社・日本三大稲荷の一つ高松最上稲荷・秀吉の水攻めの舞台となった 備中高松城址・日本で4番目に大きい前方後円墳の造山古墳など多数の史跡があり、 たくさんの観光客が訪れていると。 吉備路とは、岡山市北西部(高松・足守・一宮の一部)から総社市にかけての一帯の総称。 吉備津神社の表参道松並木の神社寄りには「 彫られた三木朱城の句碑が。ホトトギス同人で、岡山地方で「旭川」を主宰し 多くの俳人を育てた人物であると。 藺田とはイグサを育てる田んぼとのこと。 神社前の駐車場にある売店前の赤鬼がソフトクリーム、あま酒を売っていた。 屋根に苔の生えている手水舎。 吉備津神社入口。 表面に多くの苔が生えた矢置岩。 『社伝によれば、当社の西北8キロの新山に温羅(うら)といふ鬼神あり、凶暴にして 庶民を苦しむ、大吉備津彦は『吉備の中山』に陣取り鬼神と互いに弓矢を射るに、 両方の矢、空中にて衝突して落つ、そこに矢喰宮(旧高松町高塚に現存)あり。 また、中山主神は鬼神の矢を空中に奪取す、当社本殿の中に祀る矢取明神はすなわちそれなり、 この戦いのとき大吉備津彦命、その矢をこの岩の上に置き給いしにより矢置岩と呼ぶと、 旧記によれば中古より箭祭り(やまつり)の神事あり、願主は櫻羽矢または白羽の矢を献る。 神宮その矢を岩上て立てて交通の安全を祈る、のちその矢を御蔵矢神社に納むる例なりき、 と、この神事いつしか中絶せしが、昭和三十五年、岡山県弓道連盟の奉仕により復活され、 毎年正月三日、ここに矢立の神事を斎行することとなれり。』と。 両側に提灯が飾られた階段を上る。 階段を上がると朱の北随神門(きたずいじんもん)が迎えてくれた。 一般には「隋身門」と書くのだが、吉備津神社では「身」の字を「神」としていると。 みやげ物店の並ぶ北参道の中ほどに位置する三間一戸の八脚門で室町中期の 1543年(天文12年)築と。 屋根は入母屋造、桧皮葺、木部はすべて丹塗りで、壁は白く塗られている。 左右には随神を安置していた。 【国指定重要文化財】。 門の両側には既に立派な門松が準備されていた。 向かって左側。 向かって右側。左右対称に。 北随神門を抜けると、また階段があり、門のような感じの絵馬殿が見えて来た。 絵馬殿の「吉備津宮」 とかかれた扁額いや神額か。 そしてその下には菊の御紋が。ここ吉備津神社は官幣中社という社格を有する社。 そして絵馬殿を潜るといよいよ拝殿・本殿が目の前に。 吉備津神社は応永12年(1405年)に再建し、応永32年(1425年)に遷座 。 国の重要文化財に指定されている。 社務所も忙しそうに正月の準備を。 手前には神紋である「五七の桐」紋がズラッと。 多くの備中神楽面が展示されていた。 「備中神楽」は国指定重要無形民俗文化財であるとのこと。 吉備津神社の銅鐘。 永正17年(1520)に社務代生石兵庫助藤原家秀らが国家安泰を祈願して 吉備津宮に奉納したことが刻まれているとのこと。 国の重要美術品に指定。神仏習合時代に造られたものが享保17年(1732)に境内にあった 三重塔破却事件が起こり、元文2年(1737)に幕府裁定が寺院敗訴となって 神仏分離運動が加速された遺品の一つだと。 今は亡き横綱・千代の富士の優勝額。 昭和61年1月場所の優勝額のようだ。 なぜここに千代の富士?ネットで調べてみると、 なんでも吉備津神社の氏子さんが横綱・千代の富士の後援会長を務められていたのだと。 千代の富士の出身地は昔訪ねた事のある北海道福島町 であるが。 本殿・拝殿を斜めから。 創建は不明。主祭神に大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと・第7代考霊天皇の第3皇子)を 祀り、吉備国の総鎮守だったと。 その後、吉備国が3つの国に分かれると備中国の一宮になった。 足利義満が造営したと伝わる本殿が国宝に指定されているのだと。 屋根は前後二つの入母屋造を連結した、比翼入母屋造と呼ばれる独特な外観。 平成29年の酉年の巨大絵馬。 吉備津神社の本殿と拝殿を別の角度から。 おみくじもセルフでお金を投入する方式に。 桃太郎のイラストがレトロ調でいい味が出ているのであった。 桃太郎の鬼退治の物語が6部に分かれて描かれていた。 英語で御神籤の引き方も丁寧に説明されていた。
のどかな自然に囲まれたとある地で、おじいさんとおばあさんが暮らしていた。 ある日、おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から大きな桃が流れてきた。 おばあさんはその桃を拾って持ち帰り、おじいさんと一緒に食べようとしたところ、 桃の中から元気な男の子が飛び出してきた。 おじいさんとおばあさんはその男の子に「桃太郎」と名付け、大切に育てた。 桃太郎は鬼征伐の決心をしておじいさん、おばあさんに話すと、日頃桃太郎の強い事を 知っていたので大賛成して早速、土地の名物きびだんごを兵糧として 沢山作ってくれた。桃太郎はそのきびだんごを網袋に入れて腰にさげ、 日本一と書いた小旗を立てて勇んで家を出発した。 桃太郎の出陣を知ってイヌ、サル、キジがお供に順次加わった。 名物の?白いネコ(本物です)はのんびりと日向ぼっこ中。 鬼ケ島につくと両軍たちまち取っくみ合いの戦が始まった。 この時かたわらの山から沢山の大ザル小ザルが滑り降りてきて桃太郎に加勢。 猛然とおどりかかって来る鬼共目がけて勇敢に立ち向う桃太郎を助けて イヌ、サル、キジが大活躍。 鬼共も終には降参した。 もう決して悪いことはしませんと改心した印に宝物を全部さし出した。 桃太郎の一行は宝物を船に積んでめでたく帰路についたのであった。 こうして立派に目的を果し沢山の宝物をおみやげに無事おじいさん、おばあさんの待つ 我が家へ帰ったのであった。 桃太郎はイヌ・サル・キジのお供にもそれぞれ宝物を分け与えた。 その後村々には平和な日が続いた。桃太郎はおじいさん、おばあさんに孝養をつくし 二人共やすらかに天寿を全うすると、もう私の役目もすんだというように近くの山へ 登ってそれっきり姿を隠してしまったとさ。・・・・おしまい・・・。 御朱印をいただきました。 「三備一宮」の印が押されていた。 延喜式では名神大社と神階の最高位「一品(いっぽん)」を授けられたことから 一品吉備津宮または三備(備前・備中・備後)の一宮と称される山陽道屈指の大社 なのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.01.17 09:42:51
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