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JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.03.08
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関西本線・井田川駅を後にし更に旧東海道を南西方向に進む。



右手にあったのが『亀山宿・江戸の道(旧東海道)』案内板。
「亀山市は、江戸と京、大坂を結ぶ道路であった旧東海道が通り、城下町、宿場町として
栄えてきた。 このことから、市内井田川町から小野町にいたる約11キロの東海道に残存する
亀山城跡、 野村一里塚(国指定史跡)などの歴史遺産を組込み、白壁、土塀、史跡案内板、
休憩所、歴史広場などの整備を図り 東海道としての情緒あるふるさと街道「江戸の道」として
整備したものである。」
「景行天皇皇子日本武尊能褒野御墓
日本武尊は景行天皇の命をうけて、大和朝廷に従わない豪族を征伐するために、
九州から東北まで転戦した。 東国からの帰路に、伊吹山中にて病をえて能褒野において
ついに亡くなられ、埋葬した墓から尊の魂が白鳥となって大和へ飛び去ったと
「古事記」「日本書紀」に記され、 明治12年(1879)内務省によって現在の御墓が、
日本武尊墓と定められ、現在も宮内庁によって管理されている。
御墓は、かって「丁字塚」と呼ばれた全長90mの前方後円墳で、北勢地方最大の古墳である。
御墓に隣接して、日本武尊、弟橘姫命、建貝児王を祀る能褒野神社と、16基の後期古墳がある。」



『旧井田川小学校跡』碑。
「大正四年三月七日小田町より移転し、昭和五十四年三月三十一日まで存続した。
此の石ふみは、その門柱の片方である。」
ここにはやや面長の「二宮尊徳像」も。
1本の門柱と二宮金次郎像が寂しげに置かれていた。



国道1号線に架かる歩道橋を渡る。
川合歩道橋から見た国道1号線。遠くに錫杖ヶ岳が見えていた。



そしてここ「亀山市」は、現在ロウソクの生産が有名だ。
歩道橋上に亀とロウソクのイラストとNESWが記されていた。



旧東海道を左折して直ぐ右手に、真宗高田派の『廻向山西信寺』があった。



左手に『真宗 高田派 廻向山西信寺』寺標。



『西信寺本堂』。



左手に旧家が。



旧東海道を進むと、『椋川に架かる昭和48年(1973)竣工の川合椋川橋があった。
川合の地名はこの椋川(むくかわ)と鈴鹿川が合流する土地であることに由来していると。



『川合椋川橋』。
昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、亀山藩士
生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、理左衛門橋と呼ばれた。



『椋川』上流を見る。



『椋川』。



『東海道 亀山宿⇔庄野宿』道標。



その先で国道1号線の亀山バイパスの高架を潜って行く。



亀山バイパスを過ぎると、程なく右手に『谷口法悦(たにぐちほうえつ)題目塔』が建っていた。
昔から 「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」 と呼ばれており、日蓮宗の篤信者谷口法悦が
元禄年間(1695-98)に建てたと言われている。 解説板に記載はないが、ここは江戸時代の
川合刑場があったところで、その供養のために建てらえたと言われる。



「谷口法悦題目塔
この題目塔は、東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」「法界塔さん」 
と呼ばれている。 総高2.59mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に
「後五百歳中廣宣流布」左側に「天長地久國土安穏」、背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。
造立者の谷口法悦(生年不詳)は京の日蓮宗の篤信者で、17世紀末頃、一族と共に各地の寺院、
街道筋や追分などに題目塔と呼ばれるこれらの塔を造立したことがわかっている。」



題目塔の直ぐ先で二車線道路の信号交叉点を渡ると、左手に鉄枠で補強された
『和田道標』が建っていた。
『元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保』の文字が。



「和田道標
元禄3年(1690)、東海道から神戸・白子・若松(鈴鹿市)方面への分岐に建てられた
道標である。
正面に 「従是神戸白子若松道」、左側面に「元禄三庚午年正月吉辰施主度会益保」と
刻まれている。
「東海道分間延絵図」(文化年間・19世紀初頭) には、「脇道神戸城下町江二里半、
白子町江三里、若松邑江三里三十四町」 とあり、 亀山城下から亀山領若松港へいたる重要な
分岐点であった。
県内東海道の在銘道標の中で最も古いものである。」



正面に『従是神戸白子若松道』の文字が。
白子という地名について、藤枝宿にあった白子町と関係があるのであった。
時は天正10年(1582)、あの本能寺の変で信長公が光秀に討たれた時、家康公はわずかな
供を連れて、堺の見物をしていたのだが、身の危険を感じて堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に
逃れたのであった。
そして白子の浜師「小川孫三」の助けで家康一行を船に乗せて対岸の知多半島へと運んだのだ。
その後、家康公は孫三の恩に報いる為、孫三に藤枝宿の一画に土地を与え、諸役御免
(伝馬役などの宿場の業務を免除すること)の特権を与えたのだ。
孫三は藤枝宿に居住し、町名を故郷の名と同じ白子町とした。
現在、藤枝市の白子町は本町と名を変えているが、ご子孫は小川医院を経営しているのだと。



『東海道 道標』。
県道28号線手前を右に、石上寺方面に向かう。



先に進むと左手に、木造の神明系鳥居の奥に『小社』があった。
これは通行人による悪疫から子供を守るために祀られたもので、東海道分間延絵図には
「叉具神(しゃんぐりさん)」 と記されていると。
ここには竿石が途中で折れた石燈籠や道標と思われる石柱などもあった。



再び『東海道』道標。



「叉具神(しゃんぐりさん)」 の先で右にカーブして集落の中を進んで行く。
街道正面に和田町公民館前の前に建つ『緊急アナウンス塔』が見えて来た。



『緊急アナウンス塔』。



『和田町公民館』。



掲示板には『広重画 東海道五十三次之内 亀山』と『和田町のご案内』が。



田町公民館の斜向かいの細い路地角に「井尻道」と刻まれた『道標』が建っていた。
この『道標』は、これまで各所にあった道標と同じで、明治中期に亀山で製糸業を始めた
実業家・田中音吉が建立したものであると。



『井尻道道標』の先に入って行くと、真宗高田派の『當修山 幸福寺』があった。



『真宗 高田派 當修山 幸福寺』道標。



『幸福寺本堂』。



『鐘楼』。



旧東海道に戻ると直ぐ右手に天台真盛宗の『多宝山福善寺』が。
右手に『天台真盛宗 多宝山福善寺』寺標。



『福善寺本堂』。



『聖観世音菩薩』が雨によるレンズの水滴に・・・。



桜並木の旧東海道を進む。ここが『和田の坂道』



『広重 和田の坂道』

歌川広重が東海道亀山を描いたものの一つで、和田の坂道を描いたとされます。



右手段上に高野山真言宗の『石上寺(せきじょうじ)』があった。



『遊歌詠浄土』と刻まれた石碑。



植栽に囲まれた参道の坂を登って行く。



『伊勢七福神』のカラフルな幟が。



『石上寺本堂』。
石上寺は、延喜15年(796)熊野那智社の夢告をうけた大和国布留郷の住人・
紀真龍(きのまたつ)により、新熊野三社が勧請され神宮寺として開創されたという。



「紙本墨書石上寺も文書
石上寺は、延暦15年(796)、大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍(きのまたつ)」
により勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。鎌倉時代には将軍家祈祷所と
なるなど手厚い保護を受け広大な伽藍寺領を誇ったが、織田信長の伊勢侵攻による兵火で、
伽藍等を失い衰微したと伝えられる。現在は、後村上天皇綸旨や畠山高国袖判禁制、歳末巻数返事、
管領畠山持国室町幕府下知状、正平元年某袖判寄進状など、鎌倉から室町時代の古文書20通
(21点)が残されている。これらの文書類は、県下でも数少ない中世文書群であり、
当時の石上寺と社会との関係を示す貴重な資料である。」



『東海近畿地蔵霊場第5番地蔵堂』。



『地蔵菩薩半跏像』。



『三重四国八十八箇所霊場石仏』が幟の裏に並んでいた。



『弘法大師像』。



水子供養仏が並んでいた。



『水子地蔵尊』。



『仁王護国般若経石塚』。



再び『三重四国八十八箇所霊場石仏』。



『鐘楼』。



熊野三社を祀る『拝殿』。



『拝殿』に掛かる『熊野大権現』の扁額。



『拝殿』の内部。



『三重四国八十八箇所霊場第26番』。



『聖観世音菩薩』。



『六地蔵』。



こちらに『石上密寺』と刻まれた寺標。




                              ・・・​もどる​・・・

                   ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2020.04.20 11:21:03
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